結奈の願い
カチャ、と静かに玄関のドアを開けて家に入る。
リビングから漂ってきたのは、出汁の効いた優しいお味噌汁の匂いだった。
「ただいま、陽葵」
「あ、おかえりー。今ちょうどご飯できるところだよ」
キッチンを覗くと、エプロン姿の陽葵がフライパンでおかずを炒めていた。
「悪かったな、遅くなって。手伝うよ」
「別に大丈夫。でも、こんなに遅いお父さんって久しぶりだね。また会社が忙しくなったの?」
陽葵が手を動かしながら何気なく聞いてくる。
(……本当は、前みたいに空を飛んだり転移魔法を使って一瞬で帰れなくなったから、物理的に移動時間がかかるようになっただけなんだけどな……)
もちろん、そんなファンタジーな本当のことを言えるわけがない。
「ああ、うん。ちょっと仕事が立て込んで慌ただしくなってさ」
俺は当たり障りのない言い訳をして誤魔化しながら、出来上がった料理を食卓へと運んだ。
二人で向かい合い、「いただきます」と夕食を食べ食べる。
箸を動かしながら、俺の頭の中はついさっき駅前で別れたばかりの彼女――結奈のことでいっぱいだった。中身は5年前に亡くなった、俺の妻であり陽葵の母親である結衣だ。
(もし、陽葵に『今日、実はお母さんと会ったんだ』なんて言ったら、どう思うだろうか……。見た目は20代くらいの全然違う若い女性だし、絶対に頭がおかしくなったって思われるよな……)
そんなことをグルグルと、ぼんやり考え込んでしまっていたらしい。
「……ちょっと、お父さん?どうしたの?」
不審に思った陽葵が、じっと俺の顔を覗き込んできた。
「え? あ、いや、何でもないぞ!」
慌ててお茶碗を持ち直して、ご飯を口に掻き込む。
「そう? なんかさっきから変だよ。一人でぼーっとして、なんかニヤニヤしてたし……ちょっとキモい」
「キ、キモい……!?」
実の娘からの容赦のない一言が、俺の胸にグサリと突き刺さる。異世界の魔物に食らった攻撃よりも精神的ダメージが大きい。ショックのあまり、俺はガックリと肩を落とした。
「あ、いや……冗談だし! ごめんって。そんなに本気で落ち込まなくてもいいじゃん」
露骨に凹んだ俺を見て、陽葵がちょっと焦ったようにフォローを入れてくる。
「ああ……大丈夫だ。ちょっと疲れてるだけだから……」
娘に心配されながら、俺は残りのご飯を平らげ、大人しく食器を片付けた。
自分の部屋に戻り、ベッドに腰掛けて大きなため息をつく。
ふとポケットの中でスマホが震えた。画面を見ると、メッセージアプリに通知が来ている。送り主の名前は『結奈』。今日交換したばかりのアカウントだ。
『大地さん、お疲れ様! 明日も仕事終わったら会えるかな?』
結奈からのメッセージを読んだ瞬間、さっきの落ち込みなんてどこかへ消し飛んでしまった。
俺はすぐに文字を入力する。
『お疲れ様。わかった、仕事が終わったら連絡するよ』
送信して数秒もしないうちに、すぐに既読がついた。
『やった! じゃあまた明日ね。おやすみなさい!』
可愛いスタンプと一緒に返ってきたメッセージを見て、俺の胸が高鳴る。
明日が来るのがこんなに楽しみなんて、異世界への転生の比じゃない。一体何年ぶりの感覚だろうか。結局、遠足の前の日の子供みたいに中々寝付けないまま、俺はそわそわとした朝を迎えることになった。
その日の夜。
仕事を大急ぎで片付けた俺は、約束通り駅前で結奈と待ち合わせた。
陽葵にはあらかじめ『今日は遅くなるから先にご飯を食べておいて』と連絡を入れてある。
「お待たせ、大地さん!」
人混みをかき分けてやってきた結奈を見て、俺は改めて彼女の姿を見た。
昨日のカチッとしたリクルートスーツ姿とは打って変わり、私服の彼女はすごくオシャレな格好をしていた。
「……なあ、せっかくそんな綺麗にオシャレしてきてくれたのに、行く場所が普通の居酒屋で本当に良かったのか?」
駅のすぐ側にある、大衆居酒屋の看板を見上げながら俺が聞くと、結奈は嬉そうに微笑んだ。
「いいのいいの! 人間としてこの世界に戻ってきたんだから、居酒屋の雰囲気もすっごく楽しみだったんだもん。さ、行こ!」
通されたのは、周囲の目が気にならない半個室の席だった。
まずは生ビールを二つ注文する。すぐにキンキンに冷えたジョッキが運ばれてきた。
「それじゃあ、乾杯!」
「カンパーイ!」
ジョッキを合わせると、結奈は幸せそうにゴクゴクと勢いよくビールを喉に流し込んだ。
「ぷはぁーっ! 美味しいっ! こんな味だったっけ? 懐かしいなぁ!」
「おいおい、そんなに勢いよく飲むなよ。お酒そんなに強くなかっただろ」
「大丈夫よ。最初の一杯は勢いよくいきたかっただけだから。あとはゆっくり飲むわ」
結奈はそう言って笑いながら、手慣れた手つきでタッチパッドを操作し、焼き鳥やポテトなどの定番メニューを次々と注文していく。
その楽しそうな姿を眺めながら、俺はずっと気になっていたことを口にした。
「そういえば……本当に、人間として転生しちゃって良かったのか? 神様の力も、あっちの世界の魔法も、もう一切使えないんだろ?」
結奈はタッチパネルを置くと、少し真面目な、だけど穏やかな目で俺を見た。
「いいの。前にこの世界に転生していた時も、私は何の力もない普通の人間として生きていたでしょ? だから、特別な力なんて持たずに、また普通の人として生きていきたいの」
「普通の人、か。俺なんかは、やっぱり魔法が使える生活にちょっと憧れちゃったりもするけどな」
俺の言葉に、結奈はクスッと悪戯っぽく笑った。
「魔法がないからこそ、この世界の人たちは知恵を出して、ここまで便利に発展できたんだよ? 異世界にはこんなに美味しい食べ物も、キンキンに冷えたビールもなかったでしょ?」
「……女神様が言うと、なんだか不思議な感じだな」
「もう女神じゃないってば。ただの普通の人間よ」
そう言って笑い合う。
「そうだな。またこうして普通にお前と向き合って話せてるのが、なんだか夢みたいだよ」
「そうね……」
結奈は愛おしそうに目を細めたあと、少し背筋を伸ばした。
「私としてはね、この世界でもう一人、どうしても会って話をしたい人がいるんだけど」
「それって……陽葵のことか?」
「もちろん。陽葵が9歳のときに私が事故でいなくなっちゃって、もう5年も経つんだもんね。大きくなった陽葵に会いたいし、たくさんお話がしたいわ。……どうかな? 今度、陽葵と会わせてくれない?」
結奈の真っ直ぐな提案に、俺は少しウッと口籠もってしまう。
「いや……気持ちはすごく分かるんだけどさ。陽葵からしてみたら、いきなり知らない女性を父親から紹介されるわけだろ? 正直、気まずくならないか?」
「そんなの最初だけよ。ちゃんと私が結衣だってことを分かってもらえれば、絶対に受け入れてくれるって。きっと大丈夫!」
「そう簡単にいくかなぁ……。結奈、お前は今、その……戸籍上は28歳だっけ? 俺とはひと回りも年が離れてるんだぞ。陽葵がそれを見たら『お父さんが若い女に引っかかった!』とか思って、めちゃくちゃ警戒されそうな気がするんだけど……」
心配する俺をよそに、結奈は身を乗り出して、顔を近づけてきた。
「いいじゃない、別に若い女に引っかかったって。私、またこの世界で、大地さんと結婚したいと思ってるんだから」
「ぶふっ……!?」
ストレートすぎる言葉に、飲んでいたビールを吹き出しそうになる。
昔と変わらない、いや、新しい外見も相まって、そんな風に真っ直ぐ見つめられたら、俺に断れるはずがなかった。
「……わかったよ。そこまで言うなら、一度、陽葵に聞いてみる」
「やった! 約束だからね!」
その後は、お互いが過ごしたあの異世界の話で大いに盛り上がり、俺たちはそれぞれの家へと帰路についた。
家に帰ると、夜も遅いというのに、陽葵がまだ起きてソファに座っていた。
「ただいま、陽葵。まだ起きてたのか?」
「おかえりー。うん、もう寝ようとしてたところ」
陽葵がスマホを持って立ち上がる。
(……話を聞くなら、タイミング的には今しかないな)
居酒屋での結奈との約束を思い出し、俺はゴクリと唾を飲み込んで、意を決して声をかけた。
「なあ、陽葵。ちょっといいか」
「ん? なに?」
「実はさ……陽葵に、ちょっと会ってほしい人がいるんだが」
陽葵の動きがピタッと止まり、怪訝そうな顔で俺を見る。
「会ってほしい人? 誰それ」
「いや……その、女の人なんだが。その人が、陽葵とちょっと会って話をしてみたいって言ってて……」
俺が歯切れ悪く説明していると、陽葵の目がすっと細くなった。
「それって……お父さん、その人と付き合ってるってこと?」
「いや! まだ会ったばかりというか、そういうわけじゃないんだけど……すごくいい人でな。一度、三人で会って話を……」
俺が言いかけたところで、陽葵が実にあっさりと口を開いた。
「いいよ」
「えっ……? いいのか?」
あまりに拍子抜けな返事に、俺は呆然としてしまった。
「で、いつ会うの?」
「あ、ああ……じゃあ、今度の休みの日はどうだ?」
「土曜日ね。わかった。じゃあおやすみ」
陽葵はそう言うと、戸惑う俺を置いて、さっさと自分の部屋へと戻っていった。
あそこまであっさり承諾されると、逆に陽葵が俺のことを本当はどう思っているのか、内心どう感じているのかが分からなくて不安になってくる。
とはいえ、決まったからには進むしかない。俺はすぐに結奈へ『陽葵に話して会ってもいいって。今度の土曜日に会えるか?』と連絡を入れた。
すぐに、結奈から『OK!』と、軽くて短い返信が届く。
「……はぁ。もしかして、ここで一番悩んでて胃を痛めてるのって、俺だけなのか?」
自分の部屋のベッドにひっくり返り、俺は胃のあたりをさすった。
手首のブレスレットを眺めながら、「この【状態回復】の付与効果で、現実の胃痛やプレッシャーは治せないのかなぁ……」なんて、絶対に無理なことを考えながら、俺は長い長い夜を過ごすのだった。




