妻の正体
「……結衣、もういい。顔を上げてくれ」
俺は、地面に頭をこすりつけて土下座をしていた少女――いや、俺の妻である結衣の肩に手を置き、ゆっくりと立ち上がらせた。
目の前にいるのは、十八歳ほどの可憐な少女。けれど、その中身は俺が誰よりも愛し、そして失ったはずの結衣そのものだった。
俺は情報の洪水にパンクしそうな頭を必死に整理しながら、彼女の話を聞いた。
結衣の話を一通り聞いた俺の胸に去来したのは、再会の喜び以上に「なんてことをしてくれたんだ」という、夫としての、そして元悪役令嬢としての複雑な思いだった。
要約すると、結衣は元々、転生を司る力を持った「女神」だったらしい。退屈な神様生活に飽きて人間として転生し、そこで俺と出会って結婚した。けれど、交通事故で死んでしまい、現世では俺に会えなくなった。そこで女神の力を使って、俺が眠っている間だけ魂を異世界へ呼び寄せる方法を思いつき、実行したのだという。
「……本当はね、すぐに話すつもりだったのよ?」
結衣はバツが悪そうに、指先をいじりながら言った。
「でも、女の子に転生して、見たこともないくらい慌ててる大地さんを見てたら、なんだか面白くなっちゃって。……もうしばらく黙っておこうかなって、思っちゃったの」
「面白そうだからって……。俺はあっちで追放されないように必死で、裏切られたと思った時は毎日生きた心地がしなかったんだぞ」
俺の不満げな言葉に、結衣は「本当にごめんなさい……」としゅんと肩を落とした。
「だけど、何でよりによってあの乙女ゲーム『レイハー』の世界なんだよ。俺は四十のおじさんなんだぞ。それを悪役令嬢にするなんて……」
すると、結衣が意外そうな顔をして俺を見た。
「えっ、大地さん、『レイディアント・ハーツ』を知ってたの?」
「……ああ。途中であまりに気になって、調べてみたんだよ。数回プレイしただけだけどな」
俺が白状すると、結衣はパッと顔を輝かせた。
「でしょ?面白いでしょ!私、以前ハマってたあの世界に、一度大地さんと一緒に入ってみたかったの。あんな豪華な世界観を二人で楽しみたかったのよ」
「楽しみたかった、ね……」
俺はため息をついた。相変わらず、結衣は一度思いつくと突っ走るところがある。
「まだ聞きたいことは山ほどあるけど、まず俺をルチアの体に転生させたってことは、元のルチアはどうなったんだ?もう死んじまったからどうしようもないが……ルチアの人格を消したってことか?」
「ううん、ルチアの魂は、ずっとルチアの体の中に残していたわ。……ただ、あの時、肉体が死んでしまったから、もう復活はできないんだけど……」
肉体が死んでしまった以上、彼女が戻る場所はない。その事実に、俺は少し複雑な気分になった。
「ルチアは性格がああだったから、どのみちあんな末路になったのかもしれない。……でも、もし当初の予定通りフィリアに転生させていたとしたら、あんないい子が消えてしまうところだっただろう」
「そこは大丈夫!王子ルートの攻略が終われば大地さんを転生から解放して、彼女を元のフィリアに戻す予定だったのよ。今、私が転生していたカレンも、今は本来の彼女として、あの世界で生きているわ」
「……そうか。それなら、まだ救いがあるな」
俺は渋々ながらも納得した。
実際、魔法が使えるようになったことで現実の生活は劇的に便利になったし、陽葵との会話が増えたのも事実だ。これ以上、結衣を責め続けるのはフェアじゃない気がした。
「分かった。これ以上は責めないよ。陽葵とも上手くいってるしな。……ただ、もっと早く言ってくれればよかったのに、とは思うぞ」
「……黙って大地さんを傷つけて、あんな悲しい思いをさせて……。本当に、本当にごめんなさい」
結衣は震える声で謝り、顔を俯ける。その姿に、俺はもう怒る気なんて完全に失せてしまった。
「そういえば」と俺は話を逸らした。
「もし、あのまま死なずに追放されていたら、どうなっていたんだ?」
「その時はね、追放されたルチアにカレン……つまり私がついていって、二人で自由に過ごす予定だったの。ゲームだとね、追放されたルチアを主人公にした別ルートがあって……」
結衣は少し身を乗り出して、ゲームのシナリオを熱く語り始めた。
「復讐に燃えるルチアが、隣国を武力で乗っ取って、そのままアルカディア国に戦争を仕掛けるっていう、恋愛要素皆無な残虐なシーンのオンパレードでちょっと引くけどね」
「……ルチアが主人公のシナリオってそれだったのか。どういう神経で誰が作ったんだそのゲーム」
「ちなみにね、大地さん。今のこの世界は、『レイハー』とはまた別の異世界よ」
結衣の言葉に、俺は自分の腕を見つめた。十八歳前後の、若々しく引き締まった男の体。
「……そうだ、この体の元の人格はどうなったんだ?」
「この少年はね、この森で迷って空腹で餓死しそうだったの。だから私が『別の平和な世界へ転生させる』って条件を出して、彼の魂を送り出したわ。空っぽになったその体に、大地さんの魂を入れたのよ」
俺にはこの少年の記憶が一切ない。完全に別の人間として、どこか平和な世界に転生したということなのだろう。
「ちなみにね、その子のスキルで『土魔法』だけは使えるわよ」
「なるほど……。俺が現実で土魔法を使えたのは、この体に転生していたからか」
それなら、なぜ現実世界のベランダにルチアの知識にある薬草が生えたのか……色々疑問はあるが、そのおかげで陽葵の体調も治ったのだ。細かい理屈は気にしないことにした。
「結衣、その姿はどうしたんだ? 生前の君に少し似ている気がするけど」
「その少年の年齢に合わせて、私も十八歳の姿で実体化したの。……どうかな?少しは面影があるかな?」
そう言って微笑む彼女は、大分若くなったが、確かに生前の結衣の面影を強く宿していた。
「……ああ。間違いなく結衣だな。可愛いよ」
俺は柄にもなく顔を赤らめながら答えた。
「それで、これからどうするんだ?」
「決まってるじゃない!せっかくの剣と魔法の世界なんだから、冒険者になって、この世界を思いっきり楽しみましょうよ!」
「冒険者、か……」
その響きに、俺の心は少しだけ躍った。
公爵令嬢としての生活もまあ楽しかったが、魔法があって、魔物がいて、冒険に出る。それが転生の醍醐味というやつかもしれない。
「……いいな。賛成だ」
「決まりね!それじゃあ、森を出て街に向かいましょう!」
結衣が俺の手を取り、歩き出した。若々しい足取り。地面を蹴る感覚が、ルチアの時とは比べものにならないほど力強い。
「そういえば、陽葵は元気にしてる?」
歩きながら、結衣がごく自然な夫婦の会話のように聞いてきた。
「ああ。昨日インフルエンザになっちゃったんだけど、この土魔法で薬草が作れたんだ。それを飲ませたら、一晩であっという間に治ったよ」
「薬草?……それ、どんなもの?」
結衣が驚いたように足を止める。
「ルチアの屋敷の庭に生えてただろ。あれだよ、イメージしたら生えてきたんだ」
「……大地さん。その土魔法、もしかしたら『錬金術』かもしれないわね。……あ、そうだ!転生する前に私からも大地さんに一つ、スキルをプレゼントしてるわよ」
「何だそれは?」
「ふふ、それは街に着くまで秘密!」
結衣はいたずらっぽくウインクをした。
「また隠し事か?ロクなことにならないぞ」
「うっ……、それはもう言わないでよぉ……。本当にごめんってば」
結衣は謝りながらも、楽しそうに俺の手を引いた。
こうして他愛もない話をしながら歩いていると、昔、二人で出かけた休日を思い出す。
異世界という非日常の中に、ようやく見つけた俺たちの日常。
懐かしさを感じながら、俺たちは未知なる街へと一歩を踏み出した。




