新しい異世界
ベランダの薄暗い闇の中で、その植物だけが淡いエメラルド色の光を放っていた。
プランターの乾いた土から、ものの数秒で成長したそれは、現実の地球には存在しないはずの形をしていた。透き通るような葉の脈動、そして鼻をくすぐる、どこか懐かしい森の香り。
「これ……、異世界の薬草じゃないか」
俺は震える手でその茎を摘み取った。
ルチアとして過ごしたあの日々、図書室の書物で見たことがある。病気や傷を癒す薬草だ。
「これなら、陽葵を治せるかもしれない!」
俺は一心不乱にキッチンへ駆け込んだ。
記憶を呼び起こす。ルチアの知識によれば、この草は煮出すことで成分を抽出し、即効性のあるポーションになるはずだ。手早く小鍋に水と薬草を入れ、コンロの火にかけた。
お湯が沸騰するのを待つ間、別の魔法も使えるようになったんじゃないかと、もう一度指先に意識を集中させた。
「……火よ、出ろ」
小声で言ってみるが、やはり火も、水も、風さえも一切反応しない。
だが、土に関しては自分の意思に呼応して魔力が通う確かな感覚があった。
「……土魔法だけは、使えるのか?」
現実世界では、大地はベランダで野菜を育てるために土に魔力を与えることしかしていなかったので使う機会が少なかった。他の属性が消えてしまった中で、なぜ土だけが残ったのかはわからない。だが今は、そんな疑問よりも目の前の薬だ。
「よし、できた」
鍋の中の液体は、透き通った薄緑色に変わっていた。それを丁寧にカップに注ぎ、陽葵の部屋へと急いだ。
「陽葵、起きてくれ。薬を持ってきたぞ」
声をかけると、陽葵が力なく目を開けた。上半身を起こすだけでもかなりきつそうだ。
「……なに?お父さん……」
「お湯に薬を溶かしたんだ。これを飲めば温まるし、きっと楽になる」
薬草の正体については誤魔化して、カップを差し出した。陽葵は訝しげに中身を覗き込み、一口だけ口に含んだ。
「……なにこれ。お茶?……苦い。いらないよ、これ」
顔をしかめてカップを返そうとする陽葵。
「頼む、元気になるはずだから騙されたと思って飲んでみてくれ。お前のために用意したんだ」
俺の必死な様子に、陽葵は「……わかったよ」と呟き、一口、また一口と渋々と緑色の液体を飲み干した。
その直後だった。
陽葵の体が、一瞬だけふわっと白く光ったような気がした。
「……あれ?喉が痛くない」
陽葵が驚いたように自分の首に手を当てる。
「えっ、体が軽い!……さっきまであんなにだるかったのに」
(……成功だ!)
俺は心の中でガッツポーズをした。異世界の薬草は、現代のウイルスにも劇的な効果を発揮したらしい。
「よかった……。本当に、よかったな」
あまりの嬉しさに、ベッドサイドに座り、陽葵の頭を優しく撫でた。
「ちょっ、ちょっとお父さん! やめてよ!」
陽葵は恥ずかしそうに顔を赤くして、その手をパシッと振り払った。
「あ、ごめん。つい嬉しくて。……お腹、空いてないか? 何か食べるか?」
「……お腹、空いた」
その後、キッチンで作ったご飯を、陽葵は驚くほどの勢いで平らげた。さっきまでの高熱が嘘のように、彼女の瞳には活力が戻っている。
「ねえ、お父さん。インフルエンザって一日じゃ治らないってみんな言ってたよ。さっきの薬、本当は何なの?」
「……まあ、良くなったんだからいいじゃないか。それより、寝込んでいる時にお父さんのことを『パパ』って呼んでたな」
「……えっ!?」
陽葵が箸を止めて絶句した。
「い、言ってない! 絶対に言ってないから!」
「いや、覚えてないかもしれないけど、ママとかパパとか言ってたぞ」
「………………」
陽葵は耳まで真っ赤にして俯き、「……そうなの」と消え入るような声で呟き、黙々とご飯を食べ始めた。
話を逸らすことで、薬の正体については上手く誤魔化せたようだ。
「……陽葵。お母さんがいなくて、やっぱり寂しいか?」
俺の問いに、陽葵は少しの間をおいてから、静かに答えた。
「……最初は、さびしかったよ。でも、お父さんも頑張ってるの見てるし。……今はもう、大丈夫だよ」
「そうか。……寂しくなったら、いつでも甘えていいんだぞ」
「はぁ?嫌なんだけど」
口調は相変わらず厳しいが、その顔はどこか嬉しそうに、柔らかく笑っていた。
ご飯を食べ終え、片付けを済ませると、陽葵は自分の部屋に戻っていった。
会社を休んで、これほど長く陽葵と一緒にいたのは久しぶりだ。娘との心の距離が確実に縮まったことを実感し、その余韻に浸りながら、俺も自分の部屋に行き、ベッドに横になって眠りについた。
◇◇◇
「…………っ!?」
背中に伝わる、ゴツゴツとした硬い感触。
ベッドと違う感触に驚いてハッと目を開けた。だが、そこにあるはずの柔らかい布団も、見慣れた天井もなかった。
視界に飛び込んできたのは、高くそびえ立つ木々と、そこから漏れる幻想的な光。
「……森?まさか、また異世界か!?ルチアが生きていたのか?」
俺は慌てて起き上がろうとしたが、自分の体に違和感を覚えた。
体が、ルチアのような華奢な感触ではない。ドレスの締め付けもない。歩きやすいが地味な服。少し筋肉のついた腕。
「な、なんだこれ……!?男の体だ……。でも、俺じゃない」
そこにいたのは、四十代の冴えない中年でも、美少女令嬢でもない。
十八歳前後の、若い男の姿だった。
「どういうことだ……。何が起きてるんだ……?」
混乱しているところに、草を分ける足音が聞こえてきた。
正面の木立の間から、一人の女性が姿を現す。
誰だ?彼女は俺と目が合った瞬間、その場に固まった。
そして、「あっ!」と声を上げると、泣きそうな顔で駆け寄り、力いっぱい抱きついてきた。
「えええっ!?ちょっと、誰!?何なんだよ!」
パニックになった俺をよそに、女性はハッと我に返って離れた。見れば彼女は十代後半の、まだ幼さを残した少女だった。
彼女は今にも泣き出しそうな表情で、俺を見つめている。
「大地さん、本当にごめんなさい……!」
そう言うと、彼女はいきなり俺の目の前で地面に膝をつき、土下座をした。
「……俺の名前を、知っているのか?ていうか、その声……」
この少女の声。聞き覚えがあるなんてレベルじゃない。ずっと前から知っている。魂の奥底に刻み込まれた、愛しい人の声だ。
少女は土下座をしたまま、顔を上げた。その瞳からは涙がこぼれ落ちている。
「……大地さん。実は……私は、結衣です」
「結衣……?亡くなった、俺の妻の……結衣なのか?」
俺の思考は完全に停止した。
目の前の少女が、結衣?
あまりにも情報量が多すぎて、頭が割れそうになる。
「待ってくれ、いきなり言われても意味がわからない。何がどうなってるんだ!」
「……順を追って話すので、聞いてくれますか?」
結衣と名乗る少女は、真っ直ぐに俺を見据え、静かに、けれど切実に語り始めた。




