消えた魔法
「――ッ!?」
ガバッと、俺は飛び起きた。
荒い呼吸が、静かな部屋に響く。視界に入ってきたのは、見慣れた天井と、遮光カーテンの隙間から漏れる朝の光。異世界の豪華な天蓋付きベッドでも、あの冷たくて暗い森でもない。
「……現実、か」
おそるおそる自分の体に触れてみる。
ルチアとしてリッパーベアの爪に引き裂かれた時の、あの焼け付くような痛みはもうない。けれど、意識が遠のいていく瞬間の、氷のような「死の感覚」だけが、冷たい汗となって肌に張り付いていた。
あの時、必死に抵抗したけれど、だんだんと意識がなくなっていって……。
「助かった……のか?」
あの後、どうなったのかはわからない。だが、あそこで命を落としたとしても、こうして現実世界で生きて、陽葵を一人きりにせずに済んだ。その事実だけで、俺は心の底から安堵のため息をついた。異世界で死んでも、現実が無事ならそれでいい。
「よし……。切り替えよう」
俺は自分にそう言い聞かせ、ベッドから這い出した。
部屋を出ると、洗面所で陽葵が鏡と格闘していた。
「あ、お父さん。おはよう。ちょっと、またこれ直して。ひどいんだけど」
後頭部の髪が、まるで見事な鳥の巣のように跳ね上がっている。
「わかった、ちょっと待ってろ」
俺は自然な動作で、右手を陽葵の頭にかざした。いつものようにまずは手の表面に極薄の水魔法を張って一気に寝癖を抑えようとしたのだが――。
(……あれ?)
何も起きない。指先に魔力が集まる感覚すら、これっぽっちもなかった。おかしいと思い、火魔法をイメージしてみる。指先に熱を。だが、指先はただの指先のままだ。
「……お父さん?まだ?」
「あ、ああ、ごめん。……今日は、ちょっとできないみたいだ」
魔法のことは陽葵には秘密にしていたため本当の事は言えなかった。
「えー、できないの?しょうがないなあ」
不満げな声を上げながらも、陽葵は自分で霧吹きを手に取ってシュッシュとやり始めた。俺は「悪いな」と謝りながらリビングへ向かったが、内心では激しく動揺していた。
(魔法が使えなくなってる……!?)
これまで当たり前のように使えていた力が、綺麗さっぱり消えている。まさか、異世界でルチアが死んでしまったからだろうか。あの世界での終わりが、魔法との繋がりを断ち切ってしまったのかもしれない。
その日の通勤は、まさに地獄だった。
いつもなら風魔法で会社まで飛んでいけたが、今はただの40歳の体だ。満員電車に詰め込まれ、会社に着く頃にはすでに息が上がっている。仕事もいつもより疲れを感じて、はかどらなかった。魔法という「ブースト」を失った日常の厳しさを、俺は身をもって知った。
その夜、帰宅できたのは夜遅くだった。
「おかえり。今日はずいぶん遅かったね」
「ああ……。ごめんな、陽葵」
テーブルにはラップをかけられた夕飯が置いてある。
俺は陽葵に「ありがとう」と感謝し、疲れた体にムチを打って冷蔵庫を開けた。魔法で育てたあのオクラを食べて、疲労回復しようと思ったのだ。
「あ、お父さん。そういえば、お父さんが作ったオクラとミニトマト、もう無かったよ」
「えっ、そうか……」
前にベランダで収穫したあと、次は別の野菜を育てようと思っていて忘れていた。
(もう魔法は使えないから、魔法の野菜は作れない。こんなことになると思わなかったからな……)
魔法が使えなくなったことは仕方ない。今までの日常に戻っただけだ。
ただ、魔法がきっかけで陽葵との会話が増えていたことを思い出すと、少し惜しい気もした。
陽葵の作ったご飯を口に運び、そのまま泥のように眠りについた。
翌朝。目が覚めたのは、やはり現実のベッドだった。
(やっぱり、異世界には転生できなかった。ルチアは完全に死んだんだな。少し違うが、ゲームのシナリオ通りの結果になったわけだ……)
俺は朝食の準備をしようとキッチンへ向かったが、そこへ陽葵がフラフラとした足取りでやってきた。顔が赤く、具合が悪そうだ。
「……陽葵?どうした、顔が赤いぞ」
「うーん……なんか、熱っぽいみたい」
陽葵が差し出した体温計には、「39.0」という数字が表示されていた。
「39度!? 冗談だろ、高熱じゃないか」
驚いて、陽葵の額に手を触れた。熱い。
「昨日も熱あったのか?」
「……昨日は、別に何ともなかったんだけど」
陽葵は弱々しくそう言って、壁に寄りかかった。
「学校は休んで病院行こうか」
「……わかった」
陽葵はそう言って部屋に戻っていった。
俺はすぐに会社に欠勤の連絡を入れ、陽葵を病院へ連れて行く準備をした。
陽葵も着替えて出てきたので、軽く朝食をすませ、一緒に病院に行った。
病院での診断の結果は、インフルエンザの疑い。学校で流行っていることもあり、薬を処方されて帰宅することになった。
家に帰り、陽葵に薬を飲ませる。
「……お父さん、うつるかもしれないし、1人で大丈夫だから仕事行ってきて」
陽葵は少し強がるように大丈夫とアピールして言った。
「今日は休みを取ったんだ。異常行動があるかもしれないから、目を離すなって医者にも言われたんだぞ。いいから、部屋のドアは開けておけよ」
「……そんなのあるわけないでしょ。じゃあ休むね」
陽葵は呆れたように言いながらも、言われた通り部屋のドアを開けたまま布団をかぶった。
俺はリビングで冷えピタを準備したり、おかゆを作ったりしながら、時々、陽葵の様子を見に行くと、彼女は眠っているのか、横になっているだけなのか、大人しかった。
その夜。
リビングで陽葵の着替えを整理していたところ、部屋から話し声が聞こえてくるのに気づいた。
(……友達と電話か?)
スマホで誰かと話しているのかと思って様子を見に行くと、陽葵はベッドの上で上半身を起こし、何もない壁を見つめていた。その様子がいつもの陽葵と違っていて、不安になる。
「……陽葵、どうした?」
声をかけたが、陽葵は俺の声には反応しなかった。彼女の瞳はどこか遠くを見ていて、焦点が合っていない。
「ママ、パパがまだ帰ってこないの。お仕事、忙しいのかな」
俺は息を呑んだ。陽葵の瞳はどこか遠くを見ていて、焦点が合っていない。それは、亡くなった結衣と会話しているようだった。
(これが……医者が言っていた異常行動というやつか?)
インフルエンザの高熱が見せる幻覚。俺は胸が締め付けられる思いで、陽葵のそばに寄った。
「陽葵、俺はここにいるぞ!」
駆け寄って肩を揺さぶるが、陽葵は俺を見つめたまま、噛み合わない言葉を繰り返す。
「ママがね……一緒にいてくれるって。パパのこと、待っててって……」
「陽葵、しっかりしろ! ママは……結衣はもう……!」
陽葵に必死に呼びかけると、数秒後、陽葵の瞳にふっと光が戻った。彼女は不思議そうに俺を見上げる。
「……お父さん?何してるの?」
俺は若干動揺しながら、できるだけ冷静に問いかけた。
「……ちょっと様子を見に来ただけだ。さっき、誰かと話してたの覚えてるか?」
「え?わかんない……。寝言、言ってた?」
どうやら記憶にないらしい。会話は成立しているので、大丈夫みたいだ。少し安心し、具合はどうか聞いた。
「……喉が渇いた」
陽葵は弱々しくそう言った。熱はまだ下がっていない。水を飲ませ、陽葵を再び眠らせた。
しばらく様子を見ていたが、先ほどのような行動はなかったのでリビングに戻った。
(……結衣のことを言っていたな。やっぱり、寂しい思いをさせていたんだな)
母親がいない寂しさ。自分がいくら頑張っても、結衣の代わりにはなれない。だが、今は自分しかいないのだ。
(俺が……、陽葵を守らないと)
居ても立ってもいられなくなったので、気分転換にベランダへ出た。夜風が熱くなった頭を冷やしてくれる。
ふと足元を見ると、そこには何も植えられていない、乾いた土だけのプランターがあった。
(魔法の野菜があれば……。疲労回復程度だったがあのトマトやオクラがあれば、ひなたもすぐに元気になれるのに)
魔法を失ったことへの後悔が、今になって強く溢れ出す。異世界でルチアとして死ななければ。もっとうまく立ち回っていれば。
魔法が使えれば……。あの時死ななければ……。
「せめて、最後に1つだけでいい。ひなたを元気にする魔法の野菜があれば……!」
俺は、プランターの前にしゃがみこみ、祈るように土に手を触れた。
もう魔法なんて使えないことはわかっている。それでも、願わずにはいられなかった。
その時だ。
「……えっ?」
指先が、じんわりと熱を帯びた。
消えたはずの魔力が、体の奥底から――いや、魂の奥から、かつてないほどの強さで溢れ出してくる。
何もなかったはずの乾いた土から、まばゆい光を放つ芽が飛び出した。
それは見る間に茎を伸ばし、葉を広げ、信じられない速さで成長していく。
「嘘だろ……。魔法が、戻ったのか……?」
驚愕する俺の目の前で、光を放ちながら育った植物。
それは現実には存在しないはずの、あの異世界の薬草だった。




