1-5 はじめての0.01
次の日。
僕が高尾山ダンジョンの入口へ着いたのは、約束した時間より20分早い、午前6時40分だった。
源蔵さんは、すでに来ていた。
「遅いぞ、樹」
「まだ、20分前ですよー」
入口の脇にある長椅子へ座り、腕を組んでいる。
昨日の新品の防具も着ていた。
黒く汚れていた臭走草の汁は、だいぶ落ちている。
ただし、完全には消えていなかった。
近づくと、ほのかに臭う。
「何回洗ったんですか?」
「共同住宅の管理人に、外で5回は洗わされた」
「部屋には入れてもらえたんですか?」
「臭いが落ちるまで入るなと言われた」
源蔵さんは、外の水道で防具と服を洗い続けたらしい。
最初は周りの住人から怒鳴られたらしい‥‥‥
途中からは、見かねた誰かが石けんと古いブラシを貸してくれたという。
「大変でしたね」
「誰のせいだと思っておる」
「助けなくてもよかったんですか?」
「助けてもらって感謝はしている」
源蔵さんは、すぐに言い直した。
素直なのか、素直ではないのか、よく分からない。
僕は持ってきた包みを、源蔵さんへ渡した。
「なんだ、これは?」
「塩むすびです」
昨日、探索者遺児住宅へ帰ってから、朝食用のご飯を少しだけ分けてもらった。
小さな塩むすびが2個。
1個は僕の分。
もう1個は、源蔵さんの分だ。
「子どもから飯をもらうわけにはいかん」
「朝ご飯を食べてきたんですか?」
「水を2杯飲んだ」
「水だけじゃ持ちませんよ!」
「昨日の2倍だぞ」
「自慢しないでください」
僕が包みを引っ込めようとすると、源蔵さんは慌てて受け取った。
「今日稼いだら、必ず返すから」
「ただの塩むすび1個ですから、いいですよ」
「食い物の借りは、食い物で返す」
源蔵さんは、塩むすびを大切そうに食べた。
僕も自分の分を口に入れる。
昨日の硬いパンより、少しだけおいしかった。
朝食を終えると、僕は源蔵さんへ古い籠を渡した。
両親が使っていたものではない。
僕が初めて採取を始めたときに買い、その後使わなくなった小さな籠だった。
ところどころ傷んでいるけれど、まだなんとか使える。
「これを使ってください」
「わしが背負うには、小さくないか?」
「初めから大きな籠をいっぱいにできると思わないでください」
「草くらい、すぐに採れるだろう」
昨日、同じような言葉を聞いた気がする。
僕は不安になった。
「ダンジョンへ入る前に、必ず約束してください」
「なにをだ?」
「僕が触っていいと言うまで、植物には触らない」
「ああ」
「勝手に先へ行かない」
「分かった」
「魔獣が出たら、戦わずに逃げる」
「‥‥‥」
源蔵さんが黙った。
「返事は?」
「せっかく短剣を買ったのに‥‥‥」
「返事は?」
「‥‥‥分かったよ。お前も大概、しつこいなぁ‥‥‥」
僕たちは受付で探索者証を見せ、ダンジョンへ入った。
昨日と同じ第一採取区。朝早いため、まだ探索者の姿は少ない。
岩の隙間から淡い光を放つ苔が、薄暗い道を照らしている。
湿った土と、植物の青い臭い。
昨日の臭走草とは比べものにならないくらい、落ち着く臭いだった。
「まずは銀筋草を探します」
「昨日、樹が売っていた草だな」
「葉の形は丸に近くて、真ん中に銀色の筋が入っています。葉の裏側は、少し青みがかっています」
源蔵さんが、地面を見ながら歩く。
数分もしないうちに、道の端を指さした。
「あれか?」
丸い葉。
真ん中には、白っぽい筋が入っている。
見た目は銀筋草によく似ていたが‥‥‥
源蔵さんが手を伸ばす。
僕は慌てて、その手首をつかんだ。
「駄目です!」
「銀色の筋があるぞ?」
「銀ではなく、灰色です。それは灰眠草といいます」
僕は植物図鑑を開き、源蔵さんへ見せた。
『灰眠草』
『葉の中央に灰色の筋がある』
『茎から出る汁に触れると、手足のしびれや強い眠気を引き起こす』
『葉の裏側に、黒い斑点がある』
源蔵さんが、灰眠草の葉を裏返さないよう注意しながら、横からのぞき込んだ。
葉の裏には、小さな黒い斑点がいくつも見える。
「似すぎじゃないか?」
「だから危ないんです」
「草を採るだけでも、命懸けなんだな」
「昨日も説明しましたよね?」
「少し大げさに言っているのかと思った」
「帰りますか?」
「‥‥‥帰らん」
源蔵さんの顔から、軽く考えていた様子が消えた。
それからは、勝手に植物へ触らなくなった。
僕たちは、さらに奥へ進んだ。
岩陰に、3枚の丸い葉が見えた。
中央には、光を反射する細い銀色の筋。
葉の裏側は、わずかに青い。
「今度こそ、銀筋草です」
「これなら触っていいんだな?」
「はい。でも、引っ張らないでください。根まで傷つけずに採ります」
僕は採取鍬を使い、周りの土を少しずつ崩してみせた。
根が見えてきたら、土ごと持ち上げ、最後に根へ付いた土を優しく落とす。
「こうやって採ります」
「ずいぶん面倒だな」
「茎や根が傷つくと、買い取り価格が下がりますから」
「わしにもやらせろ」
源蔵さんが、別の銀筋草の前へしゃがんだ。
採取鍬を土へ差し込む。だが、力が強すぎた。
ぶちっ!
嫌な音がした。
持ち上げられた銀筋草は、根の途中から切れていた。
「採れたぞ」
「根が切れています」
「少しくらい、いいだろう?」
「それでは売れません」
「えっ?」
源蔵さんが切れた銀筋草を見つめる。
頭の中に声も響かなかったらしい。
ダンジョンは、ただ引き抜いただけでは採取したと認めてくれないことがある。
素材として使える状態で採って、初めて採取になる。
「もう1度です」
源蔵さんは、次の銀筋草の前へ移動した。
今度は、慎重に採取鍬を入れる。
それでも力が強い。
根が半分ほど切れた。
3本目‥‥‥今度は茎を折った。
4本目。
ようやく、根を傷つけずに土から持ち上げることができた。
《銀筋草を採取しました》
《経験値を0.01獲得しました》
源蔵さんの動きが止まった。
「今、何か聞こえた」
「銀筋草を採取したので、経験値が入ったんです」
「魔獣を倒していないのに?」
「植物採取でも経験値は入ります」
「0.01だけか?」
「はい」
「少なすぎないか?」
「だから、誰もやりたがらないんです」
源蔵さんは、手の中にある銀筋草を見た。
1本30円。
経験値は0.01。
魔獣を倒したときと比べれば、ほとんど何も手に入らないようなものだ。
「100本採って、ようやく経験値が1か」
「そうです」
「1000本なら10だな」
「計算は合っています」
源蔵さんは、採った銀筋草を籠へ入れた。
そして、次の銀筋草を探し始めた。
失敗しても、文句を言いながら何度もやり直す。
同じ作業を繰り返すうちに、採取鍬を入れる力加減が少しずつ慣れていった。
源蔵さんは以前、小さな金属加工工場で働いていたそうだ。
機械の部品を削り、同じ形に仕上げる仕事を何十年も続けていたらしい。
「工場では、失敗すると材料が全部無駄になった」
「植物も同じです」
「ああ‥‥‥少し分かってきた気がする」
最初は何本も根を切っていた。
それが、5本に1本になった。
10本に1本になった。
昼前には、ほとんど失敗しなくなっていた。
源蔵さんが採ったのは、銀筋草が23本。
魔力草が13本。
全部で36本。
手に入れた経験値は、0.36。
帰りに買い取り所へ寄ると、銀筋草が690円。
魔力草が130円。
合計820円になった。
「820円‥‥‥」
昨日は32円しか入っていなかった源蔵さんの財布へ、初めて自分で稼いだお金が入った。
「魔獣を倒すより、ずっと少ないんだよな?」
「魔獣を倒せれば、ですけどね」
「わしには、こっちの方が向いているかもしれん」
源蔵さんは、何度も買い取り明細を見返していた。
買い取り所を出ると、昨日パンを買った売店へ向かい、1個180円のパンを2個買った。
そのうちの1個を、僕へ差し出す。
「昨日の借りだ」
「半分しかあげていませんよ」
「塩むすびももらったから」
「それでも、1個は多いですよ」
「食い物の借りは、食い物で返すと言っただろう」
僕はパンを受け取った。
昨日と同じ、少し硬いパン。
だけど今日は、臭走草の臭いがしなかった。
源蔵さんが、自分のパンをかじる。
ゆっくりと味わってから、満足そうに笑った。
「昨日は経験値が0で、残金は32円だった」
「はい」
「今日は経験値が0.36で、820円稼げた」
本当に小さな変化だ。
魔獣を倒す探索者から見れば、笑われるような数字かもしれない。
それでも、昨日まで何もなかった人にとって、0.36は0ではない。
「樹。明日もよろしく頼む」
「明日も来るんですか?」
「100本採れば、経験値が1になるんだろう?」
源蔵さんの目は、昨日より少しだけ元気になっていた。
こうして、源蔵さんの植物採取1日目は終わった。
最初の1歩は、たったの0.01だった。




