1-2 僕と臭いじぃさん
叫び声が聞こえた方を見る。
白髪の老人が、こちらへ走ってきた。
いや、走っているというより、転ばないように必死で足を動かしていた。
手には、傷1つない新品の短剣があった。そして背中には、体に合っていない大きな荷物。
身に着けている防具も新品らしく、まだ体になじんでいない。
おそらく、今日初めてダンジョンへ入ったのだろう?
そのすぐ後ろを、1匹の魔獣が追いかけていた。
大きさは、小型犬くらい。
太くて長い尻尾を持った、ドブネズミに似た魔獣だ。
名前は、牙鼠
名前に鼠と付いているけれど、かわいらしさはまったくない。
黒く汚れた毛。
赤く濁った目。
そして、口から飛び出すほど大きく発達した2本の前歯。
あの汚らしい牙に噛まれると、傷口から雑菌が入り、大人でも数週間寝込むことがある。
ただし、第一採取区に現れる魔獣の中では1番弱い。
新人探索者でも、落ち着いて戦えば倒せると言われている。
その牙鼠から、老人は全力で逃げていた。
なんで、あんなじぃさんがダンジョンにいるんだろうか‥‥‥?
年金制度が崩れ始めてから、生活のためにダンジョンへ入る老人は増えていたようだし‥‥‥そのへんあたりか?
それでも、あの老人はどう見ても戦えるようには見えない。
ついに、こんな年寄りまで命を懸けなければ生きられない時代になったのか。
僕は、この世界に対してため息をつきたくなった。
「そこの坊主、逃げろ!」
僕を見つけた老人が叫んだ。
自分が追われているのに、僕の心配をしているらしい。
その直後。
老人は、地面から出ていた石につまずいた。
「うわっ!」
老人の体が宙に浮く。
握っていた短剣が手から離れ、岩の上を滑っていった。
地面に倒れた老人へ向かって、牙鼠が跳び上がる。
老人は腰を抜かしたのか、動けないらしい。
僕には剣が使えない。
魔法も使えない。
牙鼠を倒す力なんて、もちろんない。
それでも、助ける方法なら知っていた。
僕は腰に下げた袋から、黒い実を1つ取り出した。
お父さんとお母さんの植物図鑑には、こう書かれている。
『臭走草』
『黒い実を潰すと、強烈な臭気を放つ』
『一角ウサギ、鼻潜り鼠、牙鼠など、嗅覚の鋭い魔獣が嫌う』
そして、その下には赤い文字で注意書きがあった。
『人間も嫌う』
僕は黒い実を、老人の胸元へ投げつけた。
ぶちゅっ!と実が潰れる。
次の瞬間。
「‥‥‥くっさ!」
鼻の奥を直接殴られたような、強烈な臭いが広がった。
腐った卵。
何日も放置された生ごみ。
夏の暑い日に、1週間履き続けた靴下。
その全部を鍋に入れて、ぐつぐつ煮込んだような臭いだ。
牙鼠は、空中で体をひねった。
老人を飛び越え、地面に着地する。
鼻をひくつかせた直後、来た道へ一目散に逃げていった。
地面に倒れていた老人が、顔を上げる。
「く、臭っ! なんだ、これは!」
「臭走草です」
「しゅう、そう、そう?」
「魔獣が嫌う植物なんです」
「そりゃ嫌うだろう! わしも嫌だ!」
老人は鼻を押さえたまま、自分の胸元を見た。
潰れた黒い実が、防具にべったりと付いている。
僕は息を止め、老人へ駆け寄った。
腰の水筒を取り出し、貴重な水を防具へかけて臭走草の汁を流す。
けれど、もう遅い。
臭走草の汁は、少しくらい水をかけても落ちないのだ。
流さないよりは、多少ましになる程度だ。
飛び散った汁は、老人が落とした短剣にも付いていた。
僕の服や背負っている籠にも、強烈な臭いが染みついてしまった。
老人が、自分の服の袖を嗅いだ。
「うっ!」
すぐに顔を背ける。
「く、臭すぎる!」
「1度付くと、なかなか取れませんから‥‥‥」
「先に言ってくれ!」
「言っている間に、噛まれていましたよ。噛まれると傷口から雑菌が入って、しばらく寝込むことになります」
「‥‥‥」
老人は口を閉じた。
臭走草は、魔獣を追い払うには便利な植物だ。
ただし、大きな欠点がある。
人間にとっても、ものすごく臭い。
しかも、その臭いは服や道具に染みつき、水で洗ったくらいではなかなか取れない。
こうなったら、もう植物も魔獣も探せない。
人間より鼻の利く魔獣は、僕たちが近づく前に逃げてしまう。
それに、悪臭をまき散らしたまま歩いていたら、ほかの探索者にも迷惑がかかる。
邪険にされるだけならまだいい。
気の荒い探索者に怒鳴られたり、追い払われたりすることもあるのだ。
臭走草を使った日は、そこで仕事を終えるしかなかった。
まだ10本くらいしか採っていないのに‥‥‥
今日の採取は、ここまで、か‥‥‥
まだ、昼前なのに。
僕はため息をついてから、老人へ手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。すまんな」
老人は僕の手を握った。
けれど、足に力が入らないらしい。
立ち上がる途中でふらつき、もう1度、地面に座り込んだ。
「こ、腰が抜けた」
「怪我はありませんか?」
「たぶん、ない。それより坊主、魔獣が怖くないのか?」
「怖いですよ」
「それにしては、ずいぶん落ち着いていたぞ」
「戦わなくても、逃げる方法はありますからね」
老人は、不思議そうに僕を見た。
「お前、探索者なのか?」
「採取者です」
「戦わずに、ダンジョンで何を採るんだ?」
僕は背負っていた籠を見せた。
「植物です」
「草を?」
「それなりに売れますからね」
「その草が金になるのか?」
「これだけでは、パン1個分くらいにしかなりませんけどね」
老人の目が、籠へくぎづけになった。
「‥‥‥パ、パン」
しばらくして、老人のお腹が大きな音を立てた。
老人は気まずそうに腹を押さえる。
「何も食べていないんですか?」
「朝は、水を1杯飲んだだけだ」
「それじゃ、お腹も空きますね」
「昔はな。水だけでも、どうにかなったんだ」
「今日は、どうにもなっていませんね」
牙鼠から逃げて、腰まで抜かしている。
老人は言い返せず、視線をそらした。
僕は採取鍬を腰へ戻した。
「帰りましょう。牙鼠はもう追ってきませんから」
「この臭いのまま、受付を通るのか?」
「‥‥‥まあ、通るしかありませんし」
「外へ出るまで、誰にも会いたくないなぁ‥‥‥」
その願いは、すぐに破られた。
入り口へ戻る途中、向こうから来た3人組の探索者が僕たちに気づいた。
「おい、何かくせえぞ?」
1人が鼻をひくつかせる。
次の瞬間、3人の顔が引きつった。
「臭走草だ!」
「うわっ、こっちに来るぞ!」
「道を空けろ!」
3人は、魔獣を見つけたときよりも素早く壁際へ逃げた。
僕と老人の周りだけ、きれいに人がいなくなった。
老人が、今日買ったばかりらしい短剣を見下ろした。
柄にも、臭走草の汁が付いている。
「まだ1度も魔獣を斬っていないのに‥‥‥」
「牙鼠は追い払えましたね」
「剣ではなく、臭いでな」
老人は、がっくりと肩を落とした。
数歩進んだところで、後ろから遠慮がちな声が聞こえた。
「おい、坊主」
「なんですか?」
「植物の採り方というのは、難しいのか?」
振り返ると、老人は新品の短剣ではなく、僕の籠を見ていた。
これが、僕とじいちゃんとの出会いだった。
初めて会った日。
僕たちは2人そろって、ものすごく臭かったんだ。




