3-6 僕を守った経験値
牙鼠が逃げたあとも、僕たちはしばらくその場から動かなかった。すぐに追ってくる可能性もある。
仲間を連れて戻るかもしれないし、僕は臭走草の黒い実を握ったまま、大岩の隙間へ目を向けていた。
聞こえるのは、水滴が落ちる音と荷車の車輪が、かすかにきしむ音。
そして、僕と源蔵さんの荒い呼吸。
魔獣の足音は、もう聞こえなかった。
「本当に行ったのか?」
源蔵さんが、小さな声で尋ねた。
「たぶん‥‥‥」
「たぶんか」
「絶対とは言えませんよ」
「もう少し自信を持ってくれ」
「ダンジョンで絶対と言う方が危ないんですから‥‥‥」
源蔵さんは大きく息を吐き、荷車の横へ腰を下ろした。
膝が震えていた。
「怖かったんですか?」
僕が尋ねると、源蔵さんは信じられないものを見るような顔をした。
「当たり前だろう?」
大声が洞窟へ響き、源蔵さんは慌てて自分の口を塞いだ。今ので、ほかの魔獣が寄ってきたら困る。
僕も周囲を確認したけれど、新しい気配はない。
「源蔵さんも怖かったんですね」
「わしを何だと思っておる」
「牙鼠を荷車で持ち上げる人です」
「あれは、ほかに方法がなかっただけだ」
源蔵さんは自分の両手を見た。指先がまだ少し震えている。大岩を動かしたときと違い、今回は力を出す時間が長かった。
牙鼠がぶつかってきた瞬間には、かなりの衝撃もあったはずだ。僕は源蔵さんの腕や足を確かめた。
防具に傷はないし、転んでもいない。
掌も切れていなかった。
「腰は?」
「今のところは痛くない」
「膝は?」
「震えておるだけだ」
「頭は?」
「元から問題ない!」
元から問題があるとは言っていない‥‥‥
怒鳴れるくらいなら、大きな怪我はないらしい。僕は少し安心し、今度は荷車を調べた。
牙鼠の前歯が刺さった板には、2本の深い傷が残っている。片側には短いひびも入っていた。
車輪と軸は無事だった。出口まで植物を運ぶことはできそうだ。
「これ、直せますか?」
僕が傷を指さすと、源蔵さんは顔を近づけた。
「裏から板を当てれば直る。木継ぎ苔が残っておっただろう。それを使えば、前より丈夫になるかもしれんよ」
「よかった‥‥‥」
「まず、わしの心配をせんか」
「さっき確認しましたよ」
「もっと心を込めてだ」
「‥‥‥」
「口に出せと言っておる!」
そう言われると困るが本当は、ずっと言わなければと思っている言葉があった。
助けてくれて、ありがとうございます。
たったそれだけ‥‥‥
簡単な言葉なのに、なかなか口から出てこない。これまで僕は、自分でできることは自分でしてきた。
誰かに助けを求めれば、その分だけ迷惑をかける。
迷惑をかければ、いつか嫌われる。
両親を亡くしたあと、そんなふうに考えるようになっていた。
宿舎の職員は親切だった。
困ったことがあれば相談してと言ってくれた。
それでも、どこまで頼っていいのか分からなかったし、僕だけを特別に助けてもらうことが、申し訳なかった。だから、平気なふりをした。
食べる物が少なくても。
1人で眠る夜が寂しくても。自分は大丈夫だと、何度も言い聞かせた。
助けられることに慣れていない。
ありがとうと言えば、自分が1人では何もできなかったと認めるようで、少し怖い。けれど、今日は本当に1人では何もできなかった。
僕の足は動かなかったし、臭走草も投げられなかった。源蔵さんが前へ立ってくれなければ、噛まれていたかもしれない‥‥‥
「どうして、逃げなかったんですか?」
僕は荷車の傷を見ながら尋ねた。源蔵さんは、すぐには答えなかった。
「逃げようとは思った」
「思ったんですか?」
「当たり前だ。あの鼠だぞ」
初めて会った日。
源蔵さんは、簡単に魔獣を倒して稼げると思っていた。新品の防具を身につけ、新品の短剣を持ち、初めてダンジョンへ入った。けれど、実際には一番弱い牙鼠からも逃げることしかできなかった。
自分の体が、思うように動かない。
昔と同じことができない。
その事実を、牙鼠に突きつけられたのだと思う。源蔵さんにとって、牙鼠はただの弱い魔獣ではない。
自分が年を取ったことを、嫌というほど思い知らせた相手だった。
「足が動かなくなりかけた」
源蔵さんは、自分の膝を軽く叩いた。
「また、腰を抜かすかと思った」
「それなのに、前へ出たんですか?」
「逃げたら、後ろにお前がおった」
源蔵さんは、それだけ言った。
特別な決意をしたわけではないらしい。
怖くなくなったわけでもない。
僕を守れる自信があったわけでもない。
後ろに僕がいた。逃げれば僕が襲われると思い前へ出た。
それだけだった。
「初めて会った日は、僕が助けました」
「そうだ」
「だからですか?」
「今日は、わしの番だ」
当然のように言われ、胸の奥が苦しくなった。お父さんとお母さんが亡くなってから、僕を守るために魔獣の前へ立つ人はいなかった。いなくて当然だった。僕には、もう両親がいない。自分の身は自分で守るしかないとずっとそう思ってやってきた。
でも、今日は源蔵さんが僕の前へ立った。
本当のおじいちゃんではないけれど、血もつながっていないし、一緒に暮らし始めたばかりの、勝手で、口が悪くて、ときどき耳が都合よく遠くなる老人だ。
だけど‥‥‥僕を守っってくれた。
「ありがとうございます」
やっと言えた。声にした瞬間、胸の奥につかえていたものが少しだけ軽くなった。源蔵さんは返事をしなかった。ただ、僕から顔をそらし、荷車の傷を指でなぞった。
白い髪の間から見える耳が、少し赤かった。
「聞こえましたか?」
「聞こえておる」
「なら、返事をしてくださいよ」
「礼を言われるためにしたんじゃない」
「でも、僕、言いたかったので‥‥‥」
源蔵さんの耳が、さらに赤くなった。
照れているらしい。
僕は少しだけ笑いそうになった。
「今度は、腰が抜けませんでしたね」
「なぜ最後にそれを付け足す!」
「大きな成長です」
「もっと格好よく褒められんのか!」
「荷車の使い方もよかったです」
「わし自身を褒めろ!」
いつもの調子で言い合える。それだけで、無事だったのだと実感できた。
そのとき‥‥‥
荷車の傷へ触れていた源蔵さんの動きが止まった。
「どうしました?」
「声が聞こえた」
「経験値ですか?」
源蔵さんが目を閉じ、頭の中へ響いた言葉を確かめる。
《仲間を守りました》
《経験値を0.5獲得しました》
僕は驚いた。
採取籠を作ったときは0.1。
採取鍬を直したときは0.05。
それらより、ずっと多かった。源蔵さんは牙鼠を倒していないし、短剣も抜かなかった。
荷車で突進を防ぎ、僕を守っただけだ。
それでも経験値を得た。
「魔獣を倒さなくても、経験値が入るんですね」
経験値は、魔獣を倒した者へ与えられる。それが、この世界の常識だった。
けれど、僕は植物を採ることで経験値を得た。
源蔵さんは道具を直して得た。
千代さんは洗って得た。
棟吉さんは木の杖を直して得た。
芳江さんは料理で得た。
そして今、源蔵さんは僕を守って得た。
経験値は、何かを倒した証ではないのかもしれない。
誰かの役に立った証。
自分の仕事を果たした証。
ダンジョンは、人間が考えているより、ずっと多くの行動を見ているのかもしれない‥‥‥
「まだ続きがある」
源蔵さんが言った。
《必要な経験値に達しました》
《高倉源蔵のレベルが上がりました》
源蔵さんは、自分の両手を見つめた。
大岩を動かした手。
牙鼠の突進を受け止めた手。
見た目は何も変わっていない。
節が太く、細かい傷の残る、68歳相応の手だ。
「若返っておらんか?」
源蔵さんが期待した顔を僕へ向けた。僕は源蔵さんの顔をよく確かめた。
白い髪。
額のしわ。
目尻のしわ。
少し垂れた頬。
「残念ながら、かわりませんね」
「しわが1本くらい減っておらんか?」
「今、顔をしかめたので増えたかもしれません」
源蔵さんは慌てて眉間を指で伸ばした。レベルが上がっても、年齢は下がらないらしい‥‥‥
けれど、変わったものは確かにある。
初めて会った日、牙鼠から逃げていた源蔵さんが、今日は僕を守った。強くなるということは、魔獣を倒せるようになることだけではない。
怖くても、足が震えていても誰かのために前へ出られるようになった。それも、強くなったということなのだと思う。
僕は荷車の銀筋草を並べ直した。
29本とも無事だ。
隣では源蔵さんが、まだ自分の両腕を眺めている。
僕たちは大岩を動かしたときより、少しだけ変わっていた。
その変化が何なのか?このときは、まだ分かっていなかった。




