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戦えない僕は植物図鑑で生き延びる  ~じぃちゃん、いつの間にか最強になってた~  作者: とも


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21/25

3-5 じぃさんの背中

牙鼠の後ろ足が地面を蹴った。灰色の体が、地面すれすれを滑るように迫ってきた。

第一採取区に現れる中では最も弱い魔獣だ。新人探索者でも、落ち着いて戦えば倒せる相手だった。

何度も聞いた説明が、頭の中に浮かぶ。だけど、僕には関係ない。僕は新人探索者ではないんだから‥‥‥


剣を使えないし、魔法も使えない。

身体強化の適性もないんだ。

牙鼠より強い魔獣と比べれば弱いというだけで、僕より弱いわけではない。

あの前歯に噛まれれば、肉を深く抉られるし、傷口から菌が入れば、大人でも何週間も寝込む。


知っている。全部、知っているんだ。

だから逃げなければならない。わかっているんだ‥‥‥

牙鼠は短い距離なら、人間より速い。直線に走ってはいけないし、進む方向を急に変えられない習性を利用し、横へ飛び退く。岩や曲がり角を挟み、相手から姿を隠す。


講習で教わった。


両親の図鑑にも書かれていた。

それなのに‥‥‥

僕の足は動かなかった。腰の袋には臭走草がある。

指先は、すでに黒い実へ触れている。取り出して投げるだけだ。


あの日もできた。

初めて会った源蔵さんへ、迷わず投げつけた。

なぜか今日はできなかった。牙鼠の黄色い目から視線を外せない。前歯の汚れまで、異様なほどはっきり見えた。心臓が速く動きすぎて、胸の内側が痛い。

頭では何度も逃げろと命じているのに、体へ伝わらない。


怖い。


今さら、その気持ちに気づいた。僕は今まで、自分は魔獣へ冷静に対処できると思っていた。戦えなくても、逃げる方法は知っていた。植物の力を使えば、自分の身を守れる。


そう信じていた。

でも実際は、違った。

初めて源蔵さんを助けた日は、自分が狙われていなかった。

牙鼠は源蔵さんを見ていた。だから、僕は離れた場所から考えられたんだ‥‥‥


今は違う。

牙鼠の目が、僕へ向けられていた。

自分が噛まれるかもしれないと思った瞬間、積み重ねてきた知識が、すべて頭の奥へ逃げてしまった。


‥‥‥お父さんとお母さんも、こうだったのだろうか?

2人は魔獣に襲われたあと、戦わずに逃げた。逃げる判断は正しかった。

それでも、傷が深すぎて助からなかったんだ。両親だって、魔獣のことをよく知っていた。

植物を使って逃げる方法も、僕より詳しかったはずだ。

それなのに逃げきれなかった。知っていることと、できることは違うんだ‥‥‥

一瞬の恐怖が、何年も積み重ねた経験を消してしまうこともある。僕は、その当たり前のことを本当の意味で分かっていなかった。牙鼠との距離が縮まる。


袋から手を出せ!

横へ逃げろ!

動け!

何度命じても、指先さえ動かなかった。


そのとき‥‥‥


大きな背中が、僕の視界を塞いだ。

「源蔵さん?」

声が震えた。源蔵さんが、僕と牙鼠の間へ立っている。腰には、初めて会った日に持っていた短剣があった。臭走草の汁は千代さんが落としてくれたけど、その刃は今も一度も魔獣を斬っていない。

源蔵さんは短剣を抜かなかった。

代わりに荷車の持ち手を両手で握り、車体を斜めに傾けた。

僕たちで直した荷車を、盾のように牙鼠へ向けた。


「何をしているんですか!」

「見れば分かるだろう!」


分からない‥‥‥


初めて会った日の源蔵さんは、牙鼠から必死で逃げていた。短剣を抜くこともできず、石につまずき、最後には腰を抜かした。その人が、どうして今、僕の前に立っているのだろうか‥‥‥?


「横へ逃げてください!」

「お前が先に逃げろ!」

「足が‥‥‥」


動きません。

最後まで言えなかった。

悔しかった。

自分は3年間、1人でダンジョンへ通ってきた。

源蔵さんより、ずっと慣れていたはずだ。牙鼠の習性だって知っている。それなのに、僕が動けないせいで、68歳の老人が前へ立っている。


情けない。

怖い。

逃げてほしい。

でも‥‥‥


その背中を見て、少しだけ安心している自分もいた。

それが一番悔しかった。

牙鼠が荷車へ激突した。


どんっ。


重い音が洞窟へ響いた。


荷車が大きく揺れ、銀筋草を覆う布が浮き上がった。源蔵さんの靴が、地面の上を滑る。

乾いた土へ、2本の長い跡が残った。僕は思わず目を閉じた。

源蔵さんが倒れ、牙鼠が荷車を乗り越えた。最悪の光景が、頭の中へ浮かんだ。けれど、いつまで待っても源蔵さんの体はぶつかってこなかった。


目を開く。

源蔵さんは立っていた。

両足を大きく開き、荷車を支えていた。

腕は震えていたし、額には汗が浮かび、首筋へ流れていた。

平気なわけではないんだ。牙鼠の突進は重かったはずだ。

それでも、荷車を離していなかった。牙鼠の大きな前歯が、荷車の板へ深く食い込んでいた。灰色の体が、荷車の前で暴れている。


「こいつ、離れんぞ!」


源蔵さんの声が裏返った。

格好よく立っているように見えたけれど、本人もかなり怖いらしい。

「荷車の前を持ち上げてください!」

僕は牙鼠の動きを見ながら叫んだ。

「どうやってだ!」

「持ち手を下へ押すんです。てこのように!」

源蔵さんが体重をかけ、持ち手を押し下げる。後ろ側が下がり、荷車の前側が持ち上がった。

牙鼠の足が地面から離れた。

前足も。

後ろ足も。

太い尻尾も。

全部が空中で激しく動いていた。

「これでどうする!」

「少し待ってください!」

「何を待つんだ!」

「今、考えています!」

こんな方法で牙鼠を捕まえた人を、今まで見たことがない。牙鼠も、自分がどうして宙へ浮いているのか分からないらしい。必死に足を動かし、荷車の板を爪で引っかいている。僕はようやく袋から臭走草を取り出した。

けれど、投げられない。

牙鼠と荷車が近すぎる。

今、黒い実を潰せば、29本の銀筋草にも臭いが付く。

荷車も、また臭くなる。

そんなことを考えている場合ではないと分かっている。

それでも、一瞬迷ってしまった。


今日、頑張って採った銀筋草。

共同住宅へ入れる食費。

新しい靴を買うためのお金。


僕の頭の中では、命と870円が同じ秤へ載っていた。命の方が大切に決まっている。それなのに、貧しい暮らしが長くなると、簡単には切り捨てられなくなるんだ。


お金がなければ、明日困る。

でも、今怪我をすれば、明日そのものがなくなるかもしれない。


「源蔵さん、荷車を横へ振ってください!」

「草が落ちるぞ!」

「今は草より命です!」

「さっき、雑に扱うなと言っただろう!」

「今は違います!」

「どっちなんだ!」

源蔵さんが、荷車の持ち手を横へ振った。


車体が大きく動く‥‥‥

牙鼠の前歯が板から抜け、灰色の体が横へ飛んでいき、地面へ落ちた。


1回。

2回。

牙鼠は土の上を転がり、大岩の近くで止まった。すぐに立ち上がる。

まだ動けるよう‥‥‥

黄色い目が、再び僕たちへ向いた。僕は黒い実を構えた。


今度は迷わない。

銀筋草が売れなくなってもいい。

荷車が臭くなっても、千代さんに怒られればいい。源蔵さんへ、もう一度牙鼠を受け止めさせるわけにはいかない。


そのとき‥‥‥


牙鼠の鼻が動いた。


まだ潰していない臭走草の匂いを感じたのかもしれない。牙鼠は僕の手の中の黒い実を見る。次に、自分を宙へ持ち上げた荷車を見る。最後に、その荷車を構える源蔵さんを見た。


一歩、後ろへ下がった‥‥‥


「ギィッ!」


甲高い声を上げ、牙鼠は大岩の隙間へ逃げ込んだ。灰色の尻尾が闇の中へ消えた。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

洞窟へ、静けさが戻るが僕はすぐには動けなかった。牙鼠がいなくなったのに、心臓はまだ速く鳴っている。膝から力が抜け、その場へ座り込みそうになると源蔵さんが荷車を下ろし、大きく息を吐いた。


「怪我はないか?」

源蔵さんが最初に聞いたのは、自分のことではなかった。僕は何度か口を動かした。

でも、声が出なかった。

無事だったし、噛まれもしなかった。

源蔵さんも立っている。安心したら、急に目の奥が熱くなった。泣くほどのことではない。

そう思い、唇を強く噛んだ。

僕は13歳だ。

子どもかもしれない。それでも、10歳から1人で働いてきた。

魔獣が怖かったくらいで泣きたくない。助けてもらったくらいで、泣くのはもっと嫌だった。


「大丈夫です」

ようやく出た声は、自分で思ったより小さかった。源蔵さんは僕の顔を見たけれど、何も言わなかった。

たぶん、僕が泣きそうになっていることに気づいていたと思う。

気づいても、見なかったことにしてくれた。それが少しだけ、ありがたかった。


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