3-5 じぃさんの背中
牙鼠の後ろ足が地面を蹴った。灰色の体が、地面すれすれを滑るように迫ってきた。
第一採取区に現れる中では最も弱い魔獣だ。新人探索者でも、落ち着いて戦えば倒せる相手だった。
何度も聞いた説明が、頭の中に浮かぶ。だけど、僕には関係ない。僕は新人探索者ではないんだから‥‥‥
剣を使えないし、魔法も使えない。
身体強化の適性もないんだ。
牙鼠より強い魔獣と比べれば弱いというだけで、僕より弱いわけではない。
あの前歯に噛まれれば、肉を深く抉られるし、傷口から菌が入れば、大人でも何週間も寝込む。
知っている。全部、知っているんだ。
だから逃げなければならない。わかっているんだ‥‥‥
牙鼠は短い距離なら、人間より速い。直線に走ってはいけないし、進む方向を急に変えられない習性を利用し、横へ飛び退く。岩や曲がり角を挟み、相手から姿を隠す。
講習で教わった。
両親の図鑑にも書かれていた。
それなのに‥‥‥
僕の足は動かなかった。腰の袋には臭走草がある。
指先は、すでに黒い実へ触れている。取り出して投げるだけだ。
あの日もできた。
初めて会った源蔵さんへ、迷わず投げつけた。
なぜか今日はできなかった。牙鼠の黄色い目から視線を外せない。前歯の汚れまで、異様なほどはっきり見えた。心臓が速く動きすぎて、胸の内側が痛い。
頭では何度も逃げろと命じているのに、体へ伝わらない。
怖い。
今さら、その気持ちに気づいた。僕は今まで、自分は魔獣へ冷静に対処できると思っていた。戦えなくても、逃げる方法は知っていた。植物の力を使えば、自分の身を守れる。
そう信じていた。
でも実際は、違った。
初めて源蔵さんを助けた日は、自分が狙われていなかった。
牙鼠は源蔵さんを見ていた。だから、僕は離れた場所から考えられたんだ‥‥‥
今は違う。
牙鼠の目が、僕へ向けられていた。
自分が噛まれるかもしれないと思った瞬間、積み重ねてきた知識が、すべて頭の奥へ逃げてしまった。
‥‥‥お父さんとお母さんも、こうだったのだろうか?
2人は魔獣に襲われたあと、戦わずに逃げた。逃げる判断は正しかった。
それでも、傷が深すぎて助からなかったんだ。両親だって、魔獣のことをよく知っていた。
植物を使って逃げる方法も、僕より詳しかったはずだ。
それなのに逃げきれなかった。知っていることと、できることは違うんだ‥‥‥
一瞬の恐怖が、何年も積み重ねた経験を消してしまうこともある。僕は、その当たり前のことを本当の意味で分かっていなかった。牙鼠との距離が縮まる。
袋から手を出せ!
横へ逃げろ!
動け!
何度命じても、指先さえ動かなかった。
そのとき‥‥‥
大きな背中が、僕の視界を塞いだ。
「源蔵さん?」
声が震えた。源蔵さんが、僕と牙鼠の間へ立っている。腰には、初めて会った日に持っていた短剣があった。臭走草の汁は千代さんが落としてくれたけど、その刃は今も一度も魔獣を斬っていない。
源蔵さんは短剣を抜かなかった。
代わりに荷車の持ち手を両手で握り、車体を斜めに傾けた。
僕たちで直した荷車を、盾のように牙鼠へ向けた。
「何をしているんですか!」
「見れば分かるだろう!」
分からない‥‥‥
初めて会った日の源蔵さんは、牙鼠から必死で逃げていた。短剣を抜くこともできず、石につまずき、最後には腰を抜かした。その人が、どうして今、僕の前に立っているのだろうか‥‥‥?
「横へ逃げてください!」
「お前が先に逃げろ!」
「足が‥‥‥」
動きません。
最後まで言えなかった。
悔しかった。
自分は3年間、1人でダンジョンへ通ってきた。
源蔵さんより、ずっと慣れていたはずだ。牙鼠の習性だって知っている。それなのに、僕が動けないせいで、68歳の老人が前へ立っている。
情けない。
怖い。
逃げてほしい。
でも‥‥‥
その背中を見て、少しだけ安心している自分もいた。
それが一番悔しかった。
牙鼠が荷車へ激突した。
どんっ。
重い音が洞窟へ響いた。
荷車が大きく揺れ、銀筋草を覆う布が浮き上がった。源蔵さんの靴が、地面の上を滑る。
乾いた土へ、2本の長い跡が残った。僕は思わず目を閉じた。
源蔵さんが倒れ、牙鼠が荷車を乗り越えた。最悪の光景が、頭の中へ浮かんだ。けれど、いつまで待っても源蔵さんの体はぶつかってこなかった。
目を開く。
源蔵さんは立っていた。
両足を大きく開き、荷車を支えていた。
腕は震えていたし、額には汗が浮かび、首筋へ流れていた。
平気なわけではないんだ。牙鼠の突進は重かったはずだ。
それでも、荷車を離していなかった。牙鼠の大きな前歯が、荷車の板へ深く食い込んでいた。灰色の体が、荷車の前で暴れている。
「こいつ、離れんぞ!」
源蔵さんの声が裏返った。
格好よく立っているように見えたけれど、本人もかなり怖いらしい。
「荷車の前を持ち上げてください!」
僕は牙鼠の動きを見ながら叫んだ。
「どうやってだ!」
「持ち手を下へ押すんです。てこのように!」
源蔵さんが体重をかけ、持ち手を押し下げる。後ろ側が下がり、荷車の前側が持ち上がった。
牙鼠の足が地面から離れた。
前足も。
後ろ足も。
太い尻尾も。
全部が空中で激しく動いていた。
「これでどうする!」
「少し待ってください!」
「何を待つんだ!」
「今、考えています!」
こんな方法で牙鼠を捕まえた人を、今まで見たことがない。牙鼠も、自分がどうして宙へ浮いているのか分からないらしい。必死に足を動かし、荷車の板を爪で引っかいている。僕はようやく袋から臭走草を取り出した。
けれど、投げられない。
牙鼠と荷車が近すぎる。
今、黒い実を潰せば、29本の銀筋草にも臭いが付く。
荷車も、また臭くなる。
そんなことを考えている場合ではないと分かっている。
それでも、一瞬迷ってしまった。
今日、頑張って採った銀筋草。
共同住宅へ入れる食費。
新しい靴を買うためのお金。
僕の頭の中では、命と870円が同じ秤へ載っていた。命の方が大切に決まっている。それなのに、貧しい暮らしが長くなると、簡単には切り捨てられなくなるんだ。
お金がなければ、明日困る。
でも、今怪我をすれば、明日そのものがなくなるかもしれない。
「源蔵さん、荷車を横へ振ってください!」
「草が落ちるぞ!」
「今は草より命です!」
「さっき、雑に扱うなと言っただろう!」
「今は違います!」
「どっちなんだ!」
源蔵さんが、荷車の持ち手を横へ振った。
車体が大きく動く‥‥‥
牙鼠の前歯が板から抜け、灰色の体が横へ飛んでいき、地面へ落ちた。
1回。
2回。
牙鼠は土の上を転がり、大岩の近くで止まった。すぐに立ち上がる。
まだ動けるよう‥‥‥
黄色い目が、再び僕たちへ向いた。僕は黒い実を構えた。
今度は迷わない。
銀筋草が売れなくなってもいい。
荷車が臭くなっても、千代さんに怒られればいい。源蔵さんへ、もう一度牙鼠を受け止めさせるわけにはいかない。
そのとき‥‥‥
牙鼠の鼻が動いた。
まだ潰していない臭走草の匂いを感じたのかもしれない。牙鼠は僕の手の中の黒い実を見る。次に、自分を宙へ持ち上げた荷車を見る。最後に、その荷車を構える源蔵さんを見た。
一歩、後ろへ下がった‥‥‥
「ギィッ!」
甲高い声を上げ、牙鼠は大岩の隙間へ逃げ込んだ。灰色の尻尾が闇の中へ消えた。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
洞窟へ、静けさが戻るが僕はすぐには動けなかった。牙鼠がいなくなったのに、心臓はまだ速く鳴っている。膝から力が抜け、その場へ座り込みそうになると源蔵さんが荷車を下ろし、大きく息を吐いた。
「怪我はないか?」
源蔵さんが最初に聞いたのは、自分のことではなかった。僕は何度か口を動かした。
でも、声が出なかった。
無事だったし、噛まれもしなかった。
源蔵さんも立っている。安心したら、急に目の奥が熱くなった。泣くほどのことではない。
そう思い、唇を強く噛んだ。
僕は13歳だ。
子どもかもしれない。それでも、10歳から1人で働いてきた。
魔獣が怖かったくらいで泣きたくない。助けてもらったくらいで、泣くのはもっと嫌だった。
「大丈夫です」
ようやく出た声は、自分で思ったより小さかった。源蔵さんは僕の顔を見たけれど、何も言わなかった。
たぶん、僕が泣きそうになっていることに気づいていたと思う。
気づいても、見なかったことにしてくれた。それが少しだけ、ありがたかった。




