3-4 岩陰の黄色い目
29本の銀筋草へ湿らせた布をかぶせると、荷車の中は半分ほど埋まった。まだ別の植物を載せる余裕はある。普段なら、周辺をもう少し探すところだった。けれど、僕は帰ることに決めた。
「もう戻るのか?」
源蔵さんは、荷車の空いている部分をのぞき込んだ。
「まだ載るぞ」
「載るかどうかで決めるんじゃありません」
「せっかく大きな岩を動かしたのに、これだけか?」
「29本も採れたんです。今日は十分ですよ」
第一採取区が再開されたばかりの今日は、普段より慎重に行動する必要がある。安全確認が終わったとはいえ、それは危険がまったくないという意味ではない。安全区域にも魔獣は出るんだ。ただし、現れる魔獣の種類や数が把握され、問題が起きたときに救助へ向かえる範囲に収まっている。それが、ダンジョンにおける安全だった。
何も起こらない場所ではない。何かが起きても、生きて帰れる可能性が高い場所。その違いを忘れてはいけない。
「閉鎖されている間、人間が入らなくなりました。魔獣の通り道が変わっているかもしれません」
ダンジョン内の魔獣は、人間の気配を嫌うものが多い。毎日大勢の採取者や探索者が歩いていれば、足音や匂いを避けて奥へ移動する。けれど、数日間でも人がいなくなれば、入口に近い場所まで戻ってくることがある。僕たちが大岩の向こうで見つけた銀筋草も、人が入らなかったから無事だった可能性が高い。植物だけが育ち、魔獣だけが動かないとは限らない。
「さっきは、何もいなかったぞ」
「見えなかっただけかもしれません」
「気配もなかった」
「源蔵さんは、まだ魔獣の気配を見分けられませんよね?」
「わしの勘が、何もおらんと言っておる」
「その勘は、最初の日に牙鼠を見つけられましたか?」
源蔵さんは黙った。
あの日の源蔵さんは、牙鼠に追われるまで危険に気づかなかった。
どうやら、源蔵さんの勘は魔獣より遅いらしい。
「十分な量を採れたら、欲張らずに帰る。それも採取者の仕事です」
僕は言いながら、自分にも言い聞かせていた。本当は、もう少し探したい。荷車いっぱいに植物を載せて帰りたい。今日たくさん稼げれば、明日は少し楽になるから‥‥‥
食費を払っても、お金が残る。
古くなった靴を買い替えられるかもしれない。
芳江さんへ食材代を渡せるかもしれない。
欲しい物や必要な物を考え始めれば、空いている荷車がもったいなく見えてくるが、その気持ちを抑え、帰ると決めるのは簡単ではない。
両親も、きっと同じだった。
あの日。
珍しい薬草を探していた2人は、もう少しだけと奥へ進んだのだろうか?あと1本見つければ帰ろう。
あの曲がり角まで確認したら戻ろう。そんな小さな欲が、逃げる時間を奪ったのかもしれないと‥‥‥
本当のことは分からないけど、両親はもう、教えてくれないんだ。だから僕は、同じことをしないと決めている。
怖がりだと笑われてもいい。
少ししか稼げなくてもいい。
生きて帰らなければ、次の仕事はできないんだ。
「今日は帰りましょう」
僕がもう一度言うと、源蔵さんは荷車の持ち手を握った。
「分かった。お前がそう言うなら、帰ろう」
意外なほど素直だった。もっと文句を言うと思っていた。
「何だ、その顔は?」
「もう少し粘るかと思いました」
「わしは、教える人間の言うことを聞く」
「初めから聞いてください」
「初めから聞いておる」
「大岩を動かす前に、僕は止めましたよね?」
「あれは聞こえなかった」
「都合が悪いと耳が遠くなるんですね」
棟吉さんと同じだ。年齢を重ねると、自分に都合のいい音だけ聞こえるようになるのかもしれない。
僕たちは荷車を押し、来た道を戻り始めた。帰りには、途中で見つけた壊れた木箱を回収する予定だ。
持ち主が分からないため、僕たちが使うことはできない。出口の遺失物受付へ届けなければならない。
一定期間を過ぎても持ち主が現れず、所有権が放棄された場合だけ、廃棄物として引き取れる。
「木箱は、わしらの物になると思うか?」
源蔵さんが尋ねた。
「まだ、分かりません」
「かなり壊れておったぞ。普通は取りに来んだろう?」
「大事な物が入っていた可能性もありますし‥‥‥」
「中は泥の付いた布だけだったぞ」
「その布が大事なのかもしれませんよ」
「泥だぞ?」
「思い出の泥かもしれません」
「そんな泥があるか」
僕にもないと思う。それでも、持ち主が何を大切にしているかは、ほかの人間には決められない。僕にとっての植物図鑑も、知らない人が見れば古びた手書きの本だ。売店へ持ち込んでも、大した値段は付かないと思う。けれど、僕にとっては、どんな高価な道具より大切だ。
お父さんとお母さんが残した物だから‥‥‥
「持ち主が現れなかったら、直しましょう」
「金具を替えて、割れた板に当て木をする。取っ手もつけ直せるぞ」
「もう、直すつもりですね」
「直せる物を壊れたままにしておくと、落ち着かん」
源蔵さんらしいと思った。本人は何でも捨てずに直そうとするのに、自分の食事や服には無頓着だった。 自分のことも、壊れた道具と同じくらい大切にしてくれればいいのに‥‥‥
僕は、そんなことを考えた自分に少し驚いた。
以前なら、源蔵さんが何を食べようが、どんな服を着ようが関係ないと思っていたはずだ。一緒に暮らし始めてから、まだそれほど時間はたっていない。それなのに、源蔵さんが無理をすれば腹が立つし、怪我をしそうなことをすれば止めたくなる。これが家族に近づくということなのだろうか?
分からない。
僕たちは、まだ家族ではない。試験同居も始まったばかりだ。
それでも、知らない老人だったころより、大切な人になっていることだけは確かだった。
かりっ。
小さな音が、思考を断ち切った。僕は足を止めた。
「どうした?」
「静かに!」
源蔵さんも、すぐに口を閉じた。音が聞こえたのは、大岩の向こう側だ。
水滴の落ちる音とは違う。
硬い爪か歯で、石の表面を引っかいたような音だった。
僕は腰を低くし、耳を澄ませる。
ダンジョンの中では、音が複雑に反響する。
近くから聞こえても、実際には別の通路から響いていることがある。反対に、遠くの音だと思ったら、岩1枚を挟んだすぐ向こうに魔獣がいる場合もある。
かりっ。
また‥‥‥
今度は少し近い。僕は大岩と壁の間にできた隙間を見た。
そこは薄暗く、奥まで見通せない。しばらくすると、闇の中へ2つの黄色い点が浮かんだ。
最初は、光を反射する鉱石かと思ったけど、2つの点が同時に動いた。
目だ。
続いて、尖った鼻が暗がりから現れた。鼻の先が細かく動き、周囲の匂いを探っている。
灰色の汚れた毛。
太く長い尻尾。
口元から突き出した、2本の前歯。
牙鼠だった。
初めて源蔵さんと会った日。
彼を追いかけ、転ばせ、腰を抜かさせた魔獣と同じ種類だ。
胸の奥が冷たくなる。
あの日の臭い。
牙鼠の鳴き声。
地面へ倒れた源蔵さん。
黒い実を投げたときの感触。
忘れたつもりはなかったけれど、記憶は思っていたより鮮明に残っていたようだ。
「源蔵さん。ゆっくり下がってください」
僕は腰の袋へ手を入れた。中には臭走草の黒い実があった。
必要なら、すぐに投げられる。
牙鼠が大岩の陰から出てきた。
僕たちを狙っているというより、荷車の匂いを嗅いでいるようだった。
銀筋草の根を包んだ布には、芳江さんが作った野菜スープの残り汁を薄めて染み込ませてある。植物を乾燥させないための試みだった。その肉と野菜の匂いが、牙鼠を引き寄せたらしい。
「銀筋草を食うのか?」
「銀筋草ではなく、布の匂いですよ」
牙鼠は臆病な魔獣だ。こちらから刺激しなければ、餌ではないと気づいて離れる可能性がある。僕は黒い実を握ったまま、動かなかった。
今、臭走草を使えば、29本の銀筋草にも臭いが付く。
今日の稼ぎは、すべてなくなってしまう。それでも、命より大切な草ではない。
あと一歩近づいたら投げる。
心の中で決めた、そのとき。
ごとり。
荷車の車輪が動いた。地面には、わずかな傾斜があった。源蔵さんが片手を離したため、荷車が牙鼠の方へ転がり始めたのだ。
「源蔵さん、荷車!」
源蔵さんが慌てて持ち手を引く。
車輪が石へぶつかり、甲高い音を立てた。
「ギィッ!」
牙鼠の背中の毛が、針のように逆立った。後ろ足が地面を蹴る。
体が低く沈む。
あれは逃げる姿勢ではない。
牙鼠が突進するときの構えだ。
その前歯は荷車ではなく、後ろに立つ僕へ向けられていた。




