第二節 逆倒の微笑 ―次はお前の番だ―
翌朝、夜の澱みがまだ街の隅々に残る頃、彼は母親に命じられ、塵捨て場へと向かった。住宅の傍らには崖上へと続く急峻な坂道があり、そこを車が通るたび、重低音が地響きのように伝わってくる。
「ブォーン」
聞き慣れた機関の音が、坂の上から降ってきた。邸宅の紳士が、務め先へ向かうために車を走らせてきたのである。彼はいつも、窓を開けて「おはよう」と快活な声を掛けてくれるはずであった。
(おじさんだ。挨拶をせねば……)
彼が坂道を下りてくる銀色のセダンを振り返った、その瞬間。
彼の心臓は、氷の楔を打ち込まれたように凍りついた。
窓は半分ほど開いていた。しかし、運転席にいたのは、笑顔の紳士ではなかった。
開いた窓から、昨夜のあの「黒髪の女」が、だらりと上半身を外へ投げ出していた。まるで関節を無視した逆さまの姿勢で、車体から這い出るようにして、猛スピードで通り過ぎながら、彼を凝視し続けたのである。
その刹那、彼は確信した。
あの女は、邸宅の紳士に取り憑いた「影」なのだ。昨夜、納戸の窓を開け放ち、闇の中からこちらを覗き込んでいたのも、決して偶然の迷い込みではない。
一番の戦慄は、車上の女と視線がぶつかった瞬間であった。
女は、裂けたような口元で、ニヤリと、暗い愉悦を湛えて笑ったのである。
「あの視線は、はっきりと私を認識していた。おじさんに憑いているはずの彼女が、私を次の標的として定めたのだ。『次はあんたの番だよ』――あの眼はそう語っていた。昨夜、納戸の窓をこじ開けたのも、おじさんの意志ではない。あの女自身が、あちら側からこちら側へ、通路を拓こうとしていたのではないか……」
男は今でも、窓の鍵を閉めるたびに、あの逆さまの微笑が脳裏を掠めるという。
それから間もなく、彼はその地を逃れるように引っ越した。あとに残された邸宅が、その後どうなったかを知る者は、今や誰もいない。ただ、崖の淵に立つあの黒髪の女だけが、今も新たな「窓」が開くのを、じっと待ち続けているのではないか。
芥川は、或いはこう結ぶかもしれない。
「人生は地獄よりも地獄的である。しかし、我々が最も恐れるべきは、崖の上から見下ろす視線ではなく、その視線が、いつの間にか我々の内側に『ログイン』してくることなのだ」と。
男の語る「俯瞰の視線」は、今も私の背後に、冷たい影を落としている。




