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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
俯瞰の視線

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第一節 崖下の深淵 ―窓を叩く黒髪―

 或る夏の夜の事である。私は都内の古びた低層共同住宅マンションの一階で幼少期を過ごしたという、一人の男から、背筋の凍るような物語を聴かされた。その住宅は、地形の悪戯か、あるいは前世の因縁か、実に奇怪な立地に佇んでいた。背後に切り立った崖を背負い、表は喧騒なる道路に面しながらも、廊下側の窓を細目に開ければ、そこには湿り気を帯びた崖の斜面が、巨大な野獣の喉元のように迫っているのである。


 崖の上には、一軒の豪奢な邸宅が、淵を覗き込むように建っていた。奇妙なことに、崖下の住宅の一階と、崖上の邸宅の庭が、ちょうど同じ高さで対峙している。廊下の窓を開ければ、あちらの庭の草木が手に取るように見え、同時にこちらの私生活も、あちらの「視線」に無防備に晒されるという、薄気味悪い構造であった。


 その邸宅には、品の良い老婦人と、温厚そうな初老の息子が住んでいた。息子はいつも爽やかな挨拶を欠かさぬ、非の打ち所のない紳士であったという。

 ある日、少年であった彼は、自室で空想の英雄に成り代わり、我を忘れて踊り狂っていた。ふと視線を感じて窓の外へ目をやると、崖上の庭で鉢植えを愛でていた老婦人が、無言のまま、氷のような眼差しでこちらを凝視していた。

「……見られた」

 その羞恥心は、やがて根源的な恐怖へと変質した。彼はそれ以来、崖側の窓を厚い垂れカーテンで封じ、廊下の突き当たりにある納戸の戸にも、必ず厳重に鍵を下ろすようになったのである。


変事の起きたのは、熱を孕んだ真夏の夜であった。

 家族が居間で活動写真テレビに興じている最中、彼が独り寝ようと廊下へ出た時のことだ。常闇とこやみの奥で、閉まっているはずの納戸の戸が、音もなく――あたかも何者かが手招きするように――開いているではないか。

 彼は母の掃除の跡かと思い、灯もつけずに暗い廊下を這うように進んだ。納戸を覗き込んだ彼の眼に飛び込んできたのは、驚愕すべき光景であった。最奥の小さな換気窓が全開に放たれ、防虫の網戸さえも無慈悲に外されていたのである。


 窓の向こうは、崖上の庭へと通じる底なしの闇。

 その闇の中から、一人の女が身を乗り出し、こちらをじっと見つめていた。


 それは、邸宅の住人ではない。長く、重たく、漆黒の情念を練り上げたような髪が顔を覆い、虚空を射抜くような眼をした女が、崖の淵に爪先立って立っていた。


(誰だ……あんな女、見たこともない)

挿絵(By みてみん)

 あまりの恐怖に数回まばたきをした刹那、女の姿は煙のごとく霧散していた。彼は震える手で窓を閉鎖し、逃げるように寝室へ潜り込んだ。「これは夢だ、悪い夢に違いない」と己を欺きながら、辛うじて眠りについたのである。

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