第二節 狂気の母性 ―執着という名の呪縛―
災厄は、給油所を去っただけで終わったわけではなかった。
数百メートル走った先の信号機が、無慈悲な赤色を灯して彼を止めた。その時、窓硝子を「コン、コン」と叩く音がした。それは、死者が棺桶の底から助けを求めるような、硬く不吉な響きであった。
高橋君が恐る恐る横を向くと、そこには先ほどの給油所の制服を纏った、年配の女店員が立っていた。彼女は形相を変え、幽鬼のごとく青白い顔に、激しい息遣いを荒らげている。
窓を開けるや否や、女は詰め寄るような勢いで、濁った眼を剥いて叫んだ。
「……お客さん。今、あそこの便所に居ましたね。何か、見ませんでしたか?」
万引きの疑いか、あるいは何らかの不始末を咎められるのか。高橋君は狼狽しながらも、正直に答えた。
「いえ、何も……。ただ、変な人影を見たような気がして」
その言葉を聴いた瞬間、女の瞳に、この世のものとは思えぬ異様な光が宿った。
「やっぱり……。お客様にも、見えたんですね。あの子が」
女は語り始めた。十年前の夜、この場所で夜勤に就いていた彼女の一人息子が、忽然と、文字通り煙のように姿を消したのだという。警察の捜査も虚しく、足取りは絶え、失踪として処理された。
「私はね、あの子がまだ、あの場所に居ると信じているんです。だから、定年を過ぎても、老いさらばえても、此処で働き続けている。あの子はね、時折こうして『波長が合う人』の前にだけ、姿を現すんですよ……」
女は震える指先で、一枚の紙片を高橋君に押し付けた。そこには彼女の連絡先と、失踪した息子の身体的特徴が、あたかも呪文のようにびっしりと書き連ねられていた。
「お願いです。またあの子を見かけたら、何をしていたか、どこへ行こうとしていたか、どんな些細なことでもいい、私に教えてください。あの子、鼠色の作業着を着ていませんでしたか? 肩を叩かれませんでしたか?」
高橋君は、女の言葉の中に、母親としての慈愛よりも、底知れぬ「狂気」と「執着」を嗅ぎ取った。なぜ、この女は、あの不可解な影を、これほどまでに確信を持って「息子」と断じているのか。あるいは、彼女の異様なまでの念いが、あの便所の湿り気の中に、息子の形をした「何か」を呼び寄せ、形作ってしまったのではないか。
信号が青に変わるや否や、高橋君は生返事をして車を急発進させた。バックミラーに映る女の姿は、いつまでも道端に立ち尽くし、暗闇の中に溶けていく鼠色の影を、なおも追い求めているかのようであった。
その後、高橋君がその番号に連絡することは二度となかった。しかし、今でも彼は時折、自らの肩に残る「ポン」という感触を思い出し、身震いするという。あの影が本当に迷える魂だったのか、あるいは、女の狂った執着が産み出した化け物であったのか。真実は、あの国道沿いの、磨りガラスの向こう側に、今も沈殿しているのである。




