第2節 嘘つきの断罪 ―言葉の重み―
数日後、私は胸騒ぎに耐えかね、再び瑞穂町へと足を向けた。健一は幾分落ち着きを取り戻したように見えたが、その頬はさらに削げ、眼光ばかりが異常に鋭くなっていた。彼は台所で安物の珈琲を淹れてくれたが、その手は小刻みに震えている。
「少しは、眠れているか」
「……ああ。でも、眼を閉じるとあいつの夢を見るんだ。早くこっちにおいで、一人じゃ寒いって、そう囁かれている気がしてさ」
健一が自嘲気味に笑った、その時。
やはり、彼女はそこにいた。寝台の上に、以前よりも濃い影を落として座っている。
だが、前回の穏やかさは霧散していた。彼女はもはや笑っていなかった。
青白い顔をさらに蒼白くさせ、無表情という名の面を被ったまま、健一を射抜くような眼差しで凝視している。
「いつ死ぬの……ねえ、いつ。いつ死ぬの。いつ死ぬの……」
その言葉は、もはや問いかけではない。それは逃れられぬ運命への「強制」であり、魂の徴収であった。私は、彼女がなぜこれほどまでに彼の死を急かすのか、そのおぞましい理由を直感した。
「健一……君は、彼女が逝く直前に、何か約束をしたか。例えば……『俺もすぐ後を追う』といったような、安易な約束を」
私の問いに、健一は弾かれたように顔を上げた。
「……言ったよ。あいつが、暗い処へ独りで行くのが怖いって、子供みたいに泣くから。お前が死んだら、俺もすぐ死ぬ。絶対、独りにはさせないって。その時は、本気だったんだ。でも……」
その言葉が彼の唇から零れた瞬間、部屋の空気が一変した。
「本気ではなかったのか」という、氷点下の絶望が、物理的な質量を伴って室内に溢れ出した。
女の顔が、この世のものとは思えぬ憤怒に歪んだ。整っていた目鼻立ちがバラバラに崩れ、見開かれた眼球には、裏切られた者特有の、どす黒い怨念が燃え盛る。
「……嘘つき。嘘つき。死んでよ。今すぐ、死んでよ!!」
彼女が寝台から跳ね起き、健一に掴みかかろうと突進した。
健一には何も見えていない。だが、彼女の透き通った、しかし鋭利な爪が彼の胸元に突き立てられた瞬間、健一は「……うっ!」と短い悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
「おい、健一! しっかりしろ!」
彼は白目を剥き、喉を鳴らしてのたうち回っている。まるで見えぬ悪鬼の手で、その心臓を直に握り潰されているかのようであった。私は必死に、虚空に向かって彼女を押し留めようとしたが、私の手は寒冷な大気を掻くだけである。
「離れてくれ! 美咲さん、頼むから彼を許してくれ!」
絶叫しながら救急の助けを呼ぶ。その間も、女は健一の体に覆いかぶさり、その耳元で獣のような絶叫を続けていた。
「死んで! 死んで! 死んでよ!」
救急隊員が扉を蹴り破って踏み込んできた瞬間、彼女の姿は、陽炎が消えるように霧散した。
健一は一命を取り留めた。医師の診断は「急性心不全の疑い」という、何とも要領を得ぬものであった。
数週間後、退院した彼を訪ねると、あの寝台の上に彼女の姿はなかった。
健一は、彼女の遺品をすべて焼き払い、別の街へ移ることを決めていた。
「俺、死ぬ気なんてなかったんだ。あんなに愛していると思っていたのに、いざ死の淵に立たされたら、生きたくて仕方がなかった」
彼は自嘲したが、私は何も言えなかった。
彼女を「悪霊」と罵ることは、私にはできない。彼女はただ、孤独な死の淵で、愛する人がくれた唯一の「約束」という名の希望を、必死に握りしめていただけなのだ。
「君がいないなら、僕も死ぬ」
その言葉は、残される者にとっては甘美な気休めかもしれないが、逝く者にとっては、魂を縛り付ける、血で書かれた契約書になり得る。
私はあのアパートを去る際、一度だけ振り返った。錆びついた鉄扉の向こう側には、まだ誰かの執着が、冬の冷たい空気の中に澱んでいるような気がした。
人は、死にゆく者に対して、安易な約束をしてはいけない。愛という名の美辞麗句であっても、それは時に死者への呪いとなり、生者への鎌となる。
あの日、怒りに狂った彼女の形相を思い出すたびに、私は自分の吐く言葉の重さを、背筋に走る悪寒とともに、噛み締めるのである。




