第1節 瑞穂町の湿った風 ―弔問の静寂―
或る冬の入り口の事である。私は北関東の端に位置する「瑞穂町」という、かつて炭坑の煤煙に咽び、今はただ土の匂いと枯草の香ばかりが澱むうら寂しい街を訪ねた。乾燥した空っ風が容赦なく地表を舐め、人々の卑小な営みを掻き消そうとする、そんな日の暮れ方のことである。
目的は、大学時代からの旧友、佐藤健一を慰めるためであった。健一には、数年来、病める身体を労わりつつ同棲を続けてきた美咲という恋人がいた。彼女は雪の中に咲く名もなき花のように、控えめでありながら強靭な芯を持った女であったが、冬の訪れとともにその細い命の灯を吹き消されてしまったのである。
私が彼のアパートの重い鉄扉を押し開けた時、室内には三日前まで生身の人間が息づいていたとは思えぬほど、濃密な死の気配が充満していた。閉め切られた帳の隙間から、断末魔のような西日が差し込み、空中に舞う埃を白く、不気味に浮き上がらせている。
健一はベッドの脇の板敷きに、魂を抜かれた案山子のごとく座り込んでいた。その顔色といったら、青白い蝋を塗ったようで、落ち窪んだ眼窩には暗い淵が口を開けている。
「……健一、大丈夫か」
私の問いに、彼は幽霊のような緩慢な動きで顔を上げた。
「……ああ。わざわざ、済まないな」
彼は歪な微笑を浮かべようとしたが、それはかえって彼の絶望を深々と彫り込むだけの結果に終わった。私は彼の隣に腰を下ろし、世間に溢れる、砂を噛むような慰めの辞を並べ立てた。「元気を出せ」「彼女も君が泣いていては浮かばれない」「前を向くんだ」……。
口にしながら、己の言葉の軽薄さに吐き気がした。だが、そうせずには居られぬほど、彼の背負った闇は深く、底知れぬものであった。
「……無理だよ。あいつがいない世界なんて。俺は、これから独りで、どうして生きていけばいいんだ」
健一は顔を覆い、子供のように嗚咽を漏らし始めた。その湿った声が室内の静寂を浸食していく中、私は、見てはならぬものを見てしまったのである。
健一の背後、二人で微睡みを貪ったであろうその寝台の上に、一人の女が腰掛けていた。
心臓が肋骨を叩いた。見間違うはずがない。それは間違いなく、三日前に荼毘に付されたはずの美咲であった。彼女は生前好んでいた薄水色の編物を羽織り、寝台の端に、あたかも現身のごとき実在感を持って座っている。不思議なことに、死の間際の骨張った形相はなく、健康な頃の艶やかな肌を湛えていた。
彼女は、泣き崩れる健一をじっと見つめていた。その表情は、慈しむような、あまりに穏やかな微笑みであった。
(……見えているのか。美咲さん、君はそこに居るのか)
私は一瞬、怪奇への恐怖を忘れ、一種の感動に近い陶酔を覚えた。死してなお愛する者を見守る、純粋なる魂の形をそこに見出したと思ったからだ。
「健一、美咲さんが君を見ているぞ」
そう告げてやることが、彼の救いになるのではないか。そう思い、彼女の顔を正視した、その刹那である。
彼女の薄い唇が、微かに、戦慄すべき動きを見せた。
「……いつ、死ぬの?」
耳元で冷たい指先が触れたような、澄み切った、しかし血の通わぬ声であった。
私は凍りついた。彼女は微笑みを崩さぬまま、壊れた蓄音機のごとく、何度も何度も繰り返す。
「ねえ、いつ死ぬの? 約束したよね。いつ死ぬの?」
健一には、その呪詛に近い問いかけは届いていない。彼はただ、失意の底で肩を震わせている。だが、彼女の瞳の奥には、愛おしさと表裏一体の、底知れぬ、ドロリとした「期待」が、毒のごとく宿っていた。私はその日、何かに追い立てられるようにして、逃げるように彼の下宿を辞したのである。




