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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
大橋の記憶

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第2節 子供の手形

四、黒い手形


 ラジオのスイッチを切り、部屋に静寂が戻った。だが、扇風機の風が、ふと止まったような気がした。


 部屋の温度が、急激に下がる。


 香織は、ふと違和感を感じ、部屋の隅にある鏡を見た。そこに映る自分の顔の背後に、**「白いもの」**が浮かび上がってきたのだ。


 最初は、鏡の汚れかと思った。だが、それは一つ、また一つと増えていく。それは、小さな、小さな、子供の手の形をしていた。

「……え?」


 香織は慌てて鏡を拭こうとしたが、その手形は鏡の「内側」ではなく、「外側」から、べったりと押し付けられているように見えた。


 さらに、手形は鏡だけではなかった。消えかかった電球がパチパチと異様な音を立てて明滅を繰り返すと、その一瞬の光の中に、壁一面を埋め尽くすほどの、無数の黒い小さな手形が浮かび上がった。それは、泥と血にまみれた、怨念の刻印であった。


 誰かが背後にいる。それも、一人ではない。畳をこするような、カサカサという無数の音が、足元から聞こえてくる。飢えた子供たちが、彼女の「若さ」と「傲慢」を喰らうために、這い寄ってくるのだ。


「いやぁぁぁっ!」


 彼女は正気を失ったまま、部屋を飛び出した。下駄を履く余裕すらなかった。夜の路上で、彼女は震える手で、公衆電話から私に電話をかけてきたのだ。


「助けて……! 本当にいた、部屋に、あの子たちが……! 私を、連れて行こうとしてる!」



五、読経の闇

 私が、知り合いの僧侶である木村住職(仮名)を連れて彼女のアパートに駆けつけたとき、香織は共用階段の踊り場でうずくまり、激しく震えていた。その顔は、恐怖で歪み、モダン・ガールの面影は跡形もなかった。


「大丈夫、落ち着いて」


 私が肩を抱くと、彼女は言葉にならぬ悲鳴を上げながら、部屋を指差した。


 木村住職は無言で頷き、数珠を手に部屋の扉を開けた。入った瞬間、住職は小さな違和感に気づいたという。


「……山下さん、部屋を出るとき、電気を消しましたか?」


「いえ……そんな余裕、なくて……」


 だが、部屋の中は真っ暗であった。電球も、すべての光が、吸い込まれるような闇に包まれている。


 住職は、暗闇の中に座した。そして、静かに、だが重厚な声で読経を始めた。


 暗闇の中に響く経文。その間、私は外で香織を支えていた。数十分が経過しただろうか。不意に、部屋の空気がふっと軽くなるのを感じた。


「終わりましたよ」


 住職が出てきた。その顔は、慈愛と、深い疲労に満ちていた。


「彼らは、もう行きました。寂しいだけなのです」


 香織は放心状態で呟いた。


「……わかる。私、見たの。住職さんがお経を読んでいるとき、窓からたくさんの光の粒が、夜空に吸い込まれていくのを。あれは……あの濠で見た、青白い光と同じだった」



結び


 その後、香織の部屋から手形は消え、二度と怪異が起こることはなかった。


 彼女は、今でもあの濠の横を通るが、二度と「おらんもん、来てみいや」などと不遜な言葉を口にすることはない。モダン・ガールを気取ることは止めたが、その瞳には、かつての冷ややかな失笑ではなく、深い虚無が宿っている。


 世界には、科学の光では照らし出せない「影」の部分がある。そして、その影は、こちらから招き入れない限り、決して一線を越えてくることはないのだ。人間の傲慢さとエゴイズムこそが、影を呼び寄せる、最も強力な呪文なのである。


 不生濠は、今も帝都の中心で、静かに死の水を湛えている。もしあなたが夜道で、青白い奇妙な光を見ても、決して足を止めてはならない。それは、寂しがり屋の隣人たちが、新しい遊び相手を探しているサインなのだから。

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