第1節 古き濠(ほり)のささやき
一、古き濠のささやき
その濠は、帝都・東京の中心部、崩れかけた石垣と、湿った空気を吸って伸び放題になった柳の木々に囲まれ、ひっそりと横たわっている。名を「不生濠」という。およそ三百年前、時の権力者に抗った一族が処刑され、その死体が投げ込まれた怨念を鎮めるために築かれたと伝えられる。地元では「夜分に近寄るべからず」とされる、仄暗い禁忌の場所であった。
数年前、地元の新聞に、奇妙な記事が載ったことがある。
ある円タクの運転手が、深夜の銀座で拾った、膏薬の匂いのする若い女性をこの濠のほとりまで乗せた。目的地に到着し、料金を受け取ろうと後ろを振り向いた瞬間、後部座席はもぬけの殻で、座面だけがぐっしょりと水に濡れていたという。運転手はその恐怖から三日三晩寝込み、ついには職を辞した。
そんな、いかにも浅薄な噂話が絶えない場所のすぐ近くに、私の古い友人である、山下香織(仮名)は住んでいた。彼女は、モダン・ガールを気取る、至極現実的な女性である。霊感などという、論理的根拠のない不確かなものを一切信じず、むしろそういったオカルトを、冷ややかな失笑をもって鼻で笑うような性格であった。
それは、蒸し暑さに肌がじっとりと湿る、八月の終わりの夜のことだった。
二、不規則な燐光
丸ノ内のオフィスで残業を終えた香織は、愛用の自転車を漕いで、淀んだ空気の中を帰路へと急いでいた。不生濠の横を通る道は、街灯もまばらで、自分の自転車が放つ、頼りないダイナモの光だけが、アスファルトの上に湿った円を描いている。
濠の表面を撫でてきた風が、ふと彼女の頬を打った。その風があまりに冷たく、粘りつくような死の臭気を帯びていたため、彼女は思わずペダルを漕ぐ足を止めた。
「……何、あれ」
ふと濠の方を向くと、暗闇の中にぼんやりとした光が見えた。それは一つではなく、数個の淡い、青白い光の塊が、水面に近い場所で不規則に、ゆらゆらと揺れている。まるで意志を持っているかのように、浮いては沈み、右へ左へと彷徨っているのだ。
(誰か、懐中電灯でも持ってるの? いや、あんなに音もなく動くはずがない……)
一瞬、背筋に冷たいものが走ったが、香織はすぐに首を振った。
「馬鹿馬鹿しい。どうせ沼ガスの発火か、誰かの悪戯よ。科学的に説明できないことなんて、この世にはないわ」
彼女は自らの自尊心を守るため、興味を無理やり振り切り、再びペダルに力を込めた。背後から、何かが這い寄るような視線を感じた気がしたが、一度も振り返ることなく、逃げるようにアパートへと滑り込んだ。
三、ラジオの違和感
自分の部屋に戻り、鍵を二重にかける。エアコンなどない時代、窓を少し開け、気休めに扇風機を回す。静まり返った部屋の空気を、何でもいいから音で埋めたかった彼女は、着替えもそこそこに、まだ珍しい木製のラジオのスイッチを入れた。
スピーカーから流れてきたのは、真夏の恒例行事ともいえる、怪談の朗読番組であった。
『……その夜、お岩の恨みは、ついに……』
おどろおどろしい効果音と、講談師の芝居がかった声が、部屋に響く。
「はぁ、またこれ? 本当にラジオ局もネタがないわね……。人間の想像力なんて、知れたものよ」
香織は、鼻で笑いながら、寝間着に着替え始めた。
番組はちょうど、怪奇現象の研究家を名乗る男が、どこかの心霊スポットから生中継をしている場面に移った。
『……先生、どうですか? この濠に潜む怨霊たちは、果たして我々の前に、姿を現すのでしょうか』
『……ええ、感じます。非常に強い怒りを持った子供たちの霊が、そこに……。彼らは、飢えている……』
その瞬間、香織の手が止まった。スピーカーから聞こえてくる、風の音、柳の葉が擦れる音。
「ここ……さっき通った濠じゃない」
偶然にも、生中継が行われていたのは、先ほど彼女が通り過ぎたばかりの不生濠であったのだ。
彼女は、少しだけ安堵した。あの濠で見つけた不気味な光の正体は、きっとこの撮影隊が持ち込んだ照明か何かの反射だったのだろう。自らの論理が証明されたようで、気化しかけていた自尊心が、再び形を取り戻した。
『……子供がいるんです! 母親を求めて、彷徨っている。彼らは……許さないと言っています!』
ラジオの中では、研究家が数珠を激しく振り乱し、奇怪な呪文を唱え始めた。
香織は、冷ややかな笑みを浮かべた。
「でしょうもない。幽霊なんて本当にいるなら、ここまで来てみなさいよ。帝都のモダン・ガールの部屋を、見学させてあげるから」
毒づきながら、彼女はラジオを消した。だが、その傲慢な一言が、自らのエゴイズムが招いた、境界線を踏み越える引き金になるとは思いもよらなかった。




