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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
大橋の記憶

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潮騒のしがみつく影

挿絵(By みてみん)


 冬の深夜二時。臨海地区の夜間巡回は、一種の精神的な拷問である。


 我々の走らせるライトバン型のパトロール車は、海風に晒され、寒気と塩分に苛まれていた。窓の外は、どす黒い夜の闇と、波の音だけが支配する。銀鼠色の月光が、断崖絶壁の下で砕ける波頭を、冷ややかに照らし出していた。

私は助手席で、腕を組んで目を閉じていた。隣で運転する佐藤は、まだ二十代の若手警備員である。彼は時折、私を盗み見ては、何か言いたげな表情を浮かべる。私の気難しさが彼を威圧しているのだろう。しかし、私に言わせれば、彼の若さと未熟さこそが、この夜の静寂を乱す。


 「佐藤、今日もあそこ(展望台)を見ていくぞ」


 私は低く言った。展望台へと続く一本道は、かつて若者たちが夜な夜な集まり、無思慮な馬鹿騒ぎを繰り返していた場所だ。会社は、そこを「特に念入りに」回れと言う。それは、彼らの若さに対する嫉妬と、老いた者たちの、せめてもの悪あがきのようにも感じられた。


 車が展望台へと登り始めた、その時である。対向車線のカーブの向こうから、一台の黒いスポーツカーが、猛スピードで下ってきた。派手なステッカーが貼られ、改造されたマフラーが、「バリバリ」と耳を突き刺すような爆音を響かせている。それは、この夜の静寂を切り裂く、下劣な叫びのようであった。


 その車が我々の横を通り過ぎようとした瞬間、佐藤と私は同時に「あっ!」と声を上げた。

 信じられないことに、そのスポーツカーの屋根の上に、人影がしがみついていたのである。


「おい、見たか!? 今、屋根の上に誰か乗ってたぞ!」

「ああ、バカな真似を……。スタントのつもりか? 死ぬ気かあいつら!」


 佐藤はすぐさま車を急旋回させ、赤色灯を回して追跡を開始した。あんな乗り方をしてカーブを曲がれば、屋根の男は放り出されて崖下に真っ逆さまに落ちる。それは、彼の「若さ」に対する無謀な挑戦であり、死への誘惑でもあった。


「止まれ! 止まりなさい!」

 拡声器で叫びながら、佐藤は距離を詰めていく。数分後、ようやく平地に出たところで、スポーツカーを路肩に停車させることに成功した。

しかし、追い付いた時には、すでに屋根の上に人影はなかった。


 (見つかったことに気づいて、車内に潜り込んだか?)


 そう確信した我々は、車を降りた。佐藤は運転席側へ、私は助手席側へと回り込み、窓を叩く。


 車内には、二十歳前後の男女が四人。クラブの帰りなのか、大音量で音楽を流し、パトロール車に止められたことすら面白がっている様子であった。


 「お兄さん、今、屋根に誰か乗せてたよね。危ないなんてもんじゃないよ。死人が出たらどうするんだ!」


 佐藤が語気を強めて問い詰めると、運転席の若者はケラケラと笑いながら答えた。


 「えー? 何言ってるんすか、おじさん。屋根? 誰も乗ってるわけないじゃん。ねー?」


 後部座席の女の子たちも「きゃー、怖いこと言わないでよー!」「幽霊じゃなーい?」と、おちょくるような声を上げている。

 佐藤はイライラを募らせた。自分も五味(私)も、はっきりと目撃しているのである。嘘をつき通そうとする若者たちに一喝してやろうと、反対側にいる私に視線を送った。



 しかし、私は一言も発することができなかった。

 私は助手席の窓際で、真っ青な顔をして、ガタガタと震えながら、地面の一点を見つめて立ち尽くしていたのである。


 「……五味さん?」


 佐藤が不審に思って声をかけると、私は掠れた声でこう言った。


 「……佐藤、もういい。行くぞ」

 「えっ、でも、こいつら嘘を……」

 「いいから! 免許証だけ控えたら、すぐパトカーに戻れ! 俺は先に戻る!」


 私はそう吐き捨てると、若者たちの野次を無視して、逃げるような足取りでパトロール車に駆け込み、バタンとドアを閉めてしまった。


 訳がわからないまま、佐藤は事務的に手続きを済ませ、「二度とふざけた乗り方はするなよ」と告げて若者たちを解放した。


 パトロール車に戻ると、私はハンドルを握ったまま、脂汗を流して呆然としていた。


 「五味さん、どうしたんですか? あんなの見逃したら、会社のメンツが丸潰れですよ」

 少し責めるような口調で尋ねた佐藤に、私は震える手でタバコをくわえ、震える声で話し始めた。


 「……お前、あいつらと喋ってる時、車の下を見たか?」

 「いえ、見てませんけど……」


 私は深く煙を吸い込み、吐き出しながら続けた。

 「俺は、助手席側から中を覗こうとしたんだ。そしたら、ふと視界に入ったんだよ……。車の地面とボディの隙間から、逆さまになった人の頭が、ズルズル……って這い出してきたんだ」


 私とその「頭」は、至近距離で目が合ったのだ。その顔には生気がなく、泥と血にまみれていた。その瞳は、深い闇と怨念を宿しており、私を、そして彼らを、深く憎んでいるようであった。


「……あれ以上あそこにいたら、俺たちも連れて行かれる。そう直感したんだ」


 後日、佐藤がその展望台周辺の事故歴を調べてみると、十五年ほど前、スピードを出しすぎた車がガードレールを突き破って海へ転落する事故があったことが分かった。その際、助手席に乗っていた人物は車外へ投げ出され、車体と岩場の間に挟まった状態で発見されたそうだ。


 あの若者たちの車にしがみついていたのは、今もなお「誰か」と一緒に帰りたがっている、その時の犠牲者だったのかもしれない。


 数日後、私は会社を辞めた。

 あの一夜の記憶が、私の脳裏に焼き付いて離れなかったからである。


 あの若者たちは、今もなお、あのスポーツカーを乗り回しているのだろう。彼らは、自らの「若さ」を謳歌し、死への誘惑に気付かないまま、走り続けているのだろう。

 しかし、彼らの背後には、常にあの「頭」が、泥と血にまみれた怨念の瞳で、彼らを見つめ続けている。

 彼らは、自らの「若さ」が、死へのカウントダウンであることを知らない。



 私、芥川は、あの「頭」の瞳の中に、人間の業の深さと、虚無の闇を見た。

 それは、大正時代から続く、人間の、変わらぬ姿でもあった。

 潮騒の音だけが、私の心を、冷ややかに、蝕み続けている。


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