第二節 真夜中の笑い声
異変が極まったのは、さらにその翌週のことであった。
その夜、佐伯は珍しく手隙になり、椅子に深く腰掛けて一冊の文庫本を紐解いていた。いつしか微睡みが彼の意識を侵食し始めた時、あの忌まわしい音が、鼓膜を突き刺した。
「ピンポーン……」
時計の針は三時五十分を指している。新聞配達が来るには、まだ刻が早すぎる。佐伯は重い腰を上げ、窓越しに門を凝視した。やはり、誰もいない。
「またか……」
彼が毒づきながら机に戻ろうとした、その瞬間であった。
――カシャ。
静まり返ったロビーに、機械的な駆動音が響き渡った。建物正面の第一自動ドアが、何者かの気配を感知して開いたのである。
佐伯の心臓は、激しく肋骨を叩いた。執務室を隔てる分厚いガラス越しに目を凝らすが、そこには虚空があるばかりだ。続いて、風除室の向こう、第二の自動ドアが、スウッ……と、蛇が這うような滑らかさで左右に分かれた。
見えない「何か」が、外の寒気と共に、ゆっくりと庁舎内へ歩みを進めてきたのだ。
佐伯は全身の毛穴が逆立つのを感じた。彼は現実主義を標榜する男であったが、目の前で無人の扉が、招かれざる客を迎え入れる様を見せつけられては、もはや理屈など霧の彼方に消え去っていた。
朝七時。仮眠を終えた当直主任の高木巡査部長が、欠伸を噛み殺しながら執務室に現れた。佐伯は救いを見出した心地で、昨夜の怪異を語ろうと歩み寄った。しかし、高木が先に、卑俗な薄笑いを浮かべて口を開いた。
「おい佐伯。昨夜は随分と御機嫌だったな。深夜放送でも聴いて悦に浸っていたのか?」
佐伯は怪訝な顔を崩さなかった。
「いえ、昨夜はそんな余裕など……」
「隠すなよ。午前四時頃だ、俺が用足しに廊下を通った時、お前の笑い声がここまで聞こえてきたぞ。『あはは、あはは』ってな。ずいぶん楽しそうに、独りでずっと笑い続けていたじゃないか」
佐伯の血の気は一瞬にして失せ、顔は土気色に変わった。
四時といえば、あの「見えない客」がロビーへ侵入した直後の時間である。自分は恐怖に身を竦ませ、一言も発さず、ただ死人のように硬直していたはずなのだ。笑うなど、断じて、断じてあり得ぬことだ。
「……部長、本気で仰っているんですか。私は、笑ってなどいません。怖くて声も出せなかったんです」
二人の間に、氷のような沈黙が流れた。
高木の顔からも笑みが消え、二人はただ、冷え切った執務室で立ち尽くした。
警察署という場所は、負の情念や凄惨な記憶が澱のように積もる場所である。あの夜、赤外線の線を断ち切り、自動ドアを押し開けて入ってきたのは、果たして迷える死者であったのか、あるいは、署そのものが産み落とした怪物であったのか。
後日、佐伯は別の噂を耳にした。かつて深夜に帰署した隊員が、誰もいないロビーのベンチに、ポツンと座る男の影を見たという。その影は、目を離した瞬間に霧のごとく消えてしまったらしい。
もし、貴方の背後で、誰もいないはずのセンサーが鳴ったとしたら。
それは故障ではない。扉の外に立つ「誰か」が、貴方の肉体という「器」を借りて、哄笑を上げる機会を、じっと、じっと待っている合図なのかもしれない。




