悲劇の連鎖
或る初秋の暮れ方である。私は信州の避暑地から帰る途次、上野へ向かう汽車の車窓に、燃えるような、それでいて死人の血のようにどす黒い夕焼を眺めていた。その時、ふと隣り合わせた風采の上がらぬ老紳士から、北関東の或る山裾の街に纏わる、世にもおぞましい物語を聴かされたのである。
その街を、仮に「霞ヶ崎」と呼んでおこう。大正から昭和へと移ろう時代の仇花のように、山を切り拓いて無理に拵えられた新興の住宅地であった。その街の最端、切り立った崖が背後に迫り、日が落ちると同時に山の巨大な影が家々を呑み込む、呪われた一角があった。
そこには、近隣の者が声を潜めて「志村の屋敷」と呼ぶ一軒の洋館が聳えていた。主の志村は、界隈では知らぬ者のない博徒の首領であり、その面構えといったら、彫りの深い岩肌に凶悪な紋様を刻み込んだような凄まじさであった。門前には漆黒の重厚な国産自動車が常に鎮座し、その運転席には「誠」という名の、蛇のように冷ややかな眼光を放つ舎弟が、夏冬を問わず死番を勤めるが如く控えていた。
しかし、その殺伐たる魔窟には、二つの「不調和な美」が紛れ込んでいた。
一つは、志村の妻・美奈子である。極道の妻という毒々しい響きとは裏腹に、彼女は驚くほど華奢で、ジョーゼットの薄衣を纏った姿は、春の夜に漂う朧月のように儚げであった。四十路を越しているというが、その肌の白さは二十歳の処女を凌ぎ、舞台女優のような気品が、かえって周囲の闇を際立たせていた。
もう一つは、一人息子の健一である。彼は近隣の学舎へは通わず、毎朝、誠の運転する黒塗りの車で私立の進学校へと送り届けられていた。近童と交わることなく、玻璃細工の人形のように静かに、父の業とは無縁の聖域で育てられていたのである。
屋敷の車庫には、車ではなく、太い鉄格子の檻が据えられていた。中には、雪のように真っ白い大型の秋田犬「ハク」が飼われていた。門には「猛犬注意」の触書がこれ見よがしに貼られていたが、ハクは常に専門の調教師に引かれ、私たちが前を通っても吠えることさえ忘れたかのように、賢く、冷徹な静寂を保っていた。
惨劇の幕が上がったのは、山に躑躅の赤が混じり始めた春先のことである。
何たる魔が差したのか、その日は門も檻も、錠が外れていた。ハクは突如として獣の血を沸騰させ、通りかかった母子に牙を剥いたのである。僅か三つの幼児の頭蓋を噛み砕かんとする、阿鼻叫喚の地獄絵図であった。誠が血相を変えて飛び出したが、ハクは飼い犬の縁を断ち切り、誠の手を食いちぎらんばかりに暴れ狂った。
現場は鮮血に染まり、ハクは即座に引き立てられ、殺処分という無慈悲な断罪を受けた。
主を失い、空虚になった鉄格子の跡には、一台の鉄馬が置かれるようになった。高校生になった健一が、父に強請って買わせた輸入品である。しかし、この機械の馬が家にもたらしたのは、平穏ではなく、死の加速度であった。ハクの死から数ヶ月後の夏、健一は避暑地への路上で、転倒事故を起こし、無惨な骸となって帰宅したのである。
一人息子を失った志村邸からは、急速に人の温もりが剥がれ落ちていった。
志村は愛人の許へ逃れ、誠も姿を消した。残されたのは、あの美しい妻・美奈子だけであった。彼女は広い屋敷にたった一人取り残され、次第に精神の平衡を崩していった。近所では「奥様が狐に憑かれた」と、不吉な噂が流れた。
秋風が立ち始めた、或る夕暮れ時である。
私は帰路、志村邸の前を通りかかり、思わず足を止めた。燃えるような茜色の空の下、ガレージの真上にある庭の縁に、美奈子が立っていたのである。
彼女は淡い桃色のジョーゼットの長衣を一枚纏い、夕日に照らされて立ち尽くしていた。その姿はあまりに美しく、しかし同時に、この世のものとは思えないほどおぞましかった。彼女は虚空を見つめたまま微動だにせず、まるでそこだけが幽界の入り口であるかのように、異様な静寂を放っていたのである。
その光景を見た翌々日のことである。再び街に警笛が響き渡った。
美奈子は、あの庭の縁で足を滑らせ、転落したのである。運悪く、その下には息子の形見である鉄馬が横たわっていた。
駆けつけた者が目にしたのは、倒れた鉄馬の上に重なるように横たわる、桃色の女の亡骸であった。鉄馬の鋭い操縦桿が、彼女の眼窩を深く貫き、頭蓋の奥深くまで達していたという。彼女は、悲鳴を上げる暇もなく即死であった。
一家が全滅した志村邸は、幽霊屋敷として売りに出された。
後に入った家族も、犬を飼い始めたが、一月も経たぬうちに、家財道具を放り出すようにして夜逃げしていった。
それ以来、霞ヶ崎では奇怪な目撃談が絶えなくなった。
無人のはずの車庫の辺りに、桃色のワンピースを纏った女が佇んでいるというのである。
「見た」という者たちは、皆一様に、土気色の顔をして語る。
「あの奥様だ。だが、顔が……片方の眼が抉り取られたような、血塗れの、凄まじい形相で歩き回っているのだ」
私は今でも、あの夕暮れの美奈子の姿を思い出す。
あの時、彼女が見つめていたのは、亡き息子であったのか、それとも、これから自分を貫く鉄馬の切っ先であったのか。あるいは、私が最後に見かけたあの瞬間の彼女は、既に生きた人間ではなく、死の淵から招き寄せていた影であったのかもしれない。
人生は、地獄よりも地獄的である――。そんな言葉が、私の脳裏を、秋風と共に通り過ぎてゆくのである。




