おもちゃ
或る秋の日の暮れ方である。私は鎌倉の地にほど近い、松林の騒めきが波の音に混じるうら寂しい宿の一室で、吉沢と云う名の女から、身の毛もよだつような、それでいて肺腑を抉るような物語を聴かされた。それは、あの大正十二年、関東の空を焦がした大震災の余燼が、未だ人々の心に黒い炭となって残っていた頃の記録である。
吉沢の女は、当時、鎌倉の会社に勤める若き俸給生活者の妻として、四歳になる愛児と共に、絵に描いたような幸福を享受していた。彼女は長男が5歳となるのを機に、自らも内職か何かの勤めに出ようと、春の陽光のような希望を抱いていたのである。
吉沢家は、戸建てを構え、庭には季節の花が咲き乱れていた。しかし、運命の歯車は、最も残酷な瞬間に、最も無慈悲な回転を始めるものに相違ない。
その日、吉沢は昼餉を済ませた後、いつものように愛児を負い紐で背中に括り付け、日用品の買い出しへと出掛けた。背中から伝わる子供の柔らかな体温と、時折耳元で囁く幼い声。それが彼女にとっての、この世の全ての救いであった。
賑わう勧工場で買い物を楽しんでいた、その刹那である。大地が、巨大な獣の断末魔のような咆哮を上げ、激しくのたうち回った。
建物は悲鳴を上げて崩れ落ち、瓦礫の山が視界を遮る。吉沢は狂おしい恐怖に駆られ、背中の我が子を強く抱き締めながら、這うようにして表へ飛び出した。しかし、そこは既に地獄の門が開いた後の光景であった。
あちこちから、蛇のような焔が鎌首をもたげ、風に煽られて荒れ狂う火の海と化した。空は煤に汚れ、太陽はどす黒い血の色に変じている。足元には火の粉が降り注ぎ、着物の裾や髪の毛に、目に見えぬ死神の指先が触れるかのように熱が忍び寄る。
吉沢は煙に咽び、熱風に煽られながら、死に物狂いで瓦礫の隙間を潜り抜けた。背中の子供は、いつしか声を失い、ただ重く、冷たく、彼女の背に圧しかかっていた。
ようやく火の囲いを脱した時、彼女が目にしたのは、安らかな眠りに就いたかのような、しかし二度と目を覚まさぬ愛児の骸であった。 「……ああ、もしあの時、買い物になど出掛けなければ」 その悔恨は、彼女の魂を永劫に焼き続ける業火となった。自分だけが生き残り、無垢な命を奪われた。その責任の重さに、吉沢は自宅の奥まった部屋に閉じ籠り、幽鬼のような日々を送るようになったのである。
震災の傷跡を置き去りにするように、世の中は無慈悲な速さで回転を再開した。夫は再び仕事に出、隣近所からも、いつしか泣き声は消えた。しかし、彼女だけは、あの日、あの焔の中に、心を置き忘れてきたのである。
部屋の隅には、愛児が何よりも大切にしていた、木製の自動車の玩弄物が置かれていた。 「ブブウ、ブブウ」 生前、その玩具を転がしながら、愛くるしい声で笑っていた子供の幻影が、彼女の耳底を離れない。
震災から丁度一年が経過した、或る夕暮れ時の事である。 吉沢は、薄暗い部屋の中で、ぼんやりとその木の自動車を眺めていた。線香の煙が細く立ち昇り、影が壁に長く伸びる。
その時であった。
「カタ……カタ……」
畳の上で、誰の手も触れていない筈の、その木の自動車が、突如として動き始めたのである。
吉沢は息を呑み、血の気の引いた顔でそれを見守った。玩具は、何かに導かれるように、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って、彼女の方へと進んでくる。
その動きは、あたかも幼い子供が、母の膝元へ甘えにくる時の足取りのようであった。
「お母さん、僕は此処に居るよ。だから、もう泣かないで」
声は聞こえぬ。しかし、吉沢の心には、温かな、しかし言いようもなく悲しい我が子の囁きが、はっきりと響き渡った。
彼女の目からは、堰を切ったように涙が溢れ出し、畳を濡らした。
死者の魂は、果たして何処へ行くのか。 それは、漆黒の虚空へ消えるのではない。愛する者の傍らに、煤けた記憶と共に、永遠に寄り添い続けるものに相違ない。
芥川は、或いはこう結ぶかもしれない。 「人生は地獄よりも地獄的である。しかし、その地獄の中にこそ、目に見えぬ糸で繋がれた、死者と生者の至純なる交感があるのだ」と。
吉沢の女は、それ以来、決して塞ぎ込む事はなくなった。しかし、彼女の背中には、今も時折、目に見えぬ小さな手の温もりが、仄かに感じられると云う。




