「鹿鳴館(ろくめいかん)」
或る春の夜の事である。私は麹町の古びた洋館の片隅で、北村と云う男から、一風変わった、それでいて背筋の凍るような物語を聴かされた。北村は、往時の華やかなりし面影を僅かに残した「鹿鳴館」にて、今はその管理を任されている人物である。
大正の世も半ばを過ぎ、かつての栄華は既にセピア色の幻灯の中に沈みつつあったが、その建物だけは、夜ごと奇妙な湿り気を帯びて都の闇に佇んでいた。
その日、鹿鳴館では夜更けまで舞踏会が催されていた。シャンデリヤの灯の下、軍服の金筋や婦人たちの絹擦れが乱舞する狂乱の一刻が過ぎ、演者も客も皆、霧の立ち込める街へと散って行った。北村は独り、広い館内に残された残飯の臭気や、吐き出された煙草の煙が澱む中で、後片付けに精を出していたのである。
時刻は夜の十一時を回った頃であったろうか。
静寂を切り裂いて、突如として壁の電話機が、けたたましく鈴の音を鳴らした。
その音は、死者の耳鳴りのように執拗で、凍りついた空気を震わせた。通常、催し物の相談や私的な伝言は、直接男の宿舎へ使いが来るか、或いは別の取次がある筈である。こんな真夜中に、広大なフロアの片隅にある固定電話が鳴るなどと云う事は、およそ尋常ではない。
北村は、胸の鼓動が早まるのを感じながら、真鍮の受話器を耳に当てた。
「もしもし……」
彼が震える声でそう応じた、正にその刹那である。
受話器の奥から、微かな砂嵐のような音に混じって、「もしもし」と云う返事があった。
しかし、北村を真に戦慄せしめたのは、機械を通じた声ではなかった。
彼の耳元で響く受話器の声と、寸分違わぬタイミングで。
今しがた灯を消したばかりの、漆黒に沈むメインフロアの真ん中から、
「もしもし……」
と云う、生々しい肉声が響いてきたのである。
北村は息を呑んだ。受話器の主は、今、目の前の暗闇の中に立っている。しかも、その声は――紛れもなく北村自身のものであった。闇の中に、もう一人の自分が潜み、自分に向かって呼びかけている。
彼は狂おしい恐怖に駆られ、受話器を放り出すと、夢中で壁のスイッチを叩いた。
バアッ。
眩い電光が巨大な広間を照らし出した。
鏡張りの壁、磨き上げられた床。しかし、そこには人の影など何処にもない。ただ一つ、広間のど真ん中に、巨大な朝顔型の喇叭を掲げた蓄音機が、墓標のようにぽつねんと置かれていた。
北村は、這うようにしてその蓄音機へ近づいた。
よく見れば、その機械には動力の針も、回転を司るゼンマイの鍵も付いてはいなかった。ましてや、音を出す為の盤すら載せられてはいないのである。それにも関わらず、機械は確かに、主人の声を盗み取り、闇の中から呼び返したのだ。
あれは一体何であったのか。
古びた洋館が、長年吸い込んできた人間の言葉や感情を、何かの弾みで吐き出したのか。或いは、建物の魂が、独り残された男を嘲笑ったのか。
北村はそれ以来、日が落ちてから独りで鹿鳴館に残る事を、固く己に禁じていると云う。
芥川は、或いはこう結ぶかもしれない。
「我々の声は、一度空気に放たれれば、永遠に虚空を彷徨うものに相違ない。そして時折、不用意に開かれた闇の口が、それを我々の元へ送り返してくる。その時、我々が対面するのは、他ならぬ己自身の醜悪な化身なのである」と。
答えの出ぬ問いは、暗い井戸の底を覗くような心地良さがあるものだ。




