黒山のような津波
或る夏の日の暮れ方、私は知己の或る老紳士から、その方がかつて「高知」の地で遭遇したと云う、身の毛もよだつような奇談を聴かされた。それは昭和二十一年の冬、紀伊半島沖を震源として発生した、かの凄まじい南海大地震の直後の記録である。
その男――名を仮にA君としよう。彼は土佐の熱い風土に育まれ、高知市の静かな一角に家を構えていた。当時の高知は、震災による壊滅的な被害と、その後に押し寄せた黒山のような津波によって、街全体が巨大な棺桶のように澱んだ空気に包まれていたのである。
市内の至る所で、奇怪な噂が囁かれていた。瓦礫の山から夜な夜なすすり泣く声が聞こえるだの、引いた潮の跡に、この世の者ならぬ青白い足跡が点々と続いているだの。死者の霊が、己の亡骸を求めて彷徨っていると云うのである。
A君は当時、生家の母屋から少し離れた処に建てられた「離れ」の小部屋を寝所にしていた。そこは庭の隅にひっそりと佇む、薄暗い一間きりの建物であった。
或る日の午後、A君が用足しに市街へ出向いていた時の事である。ふと、近所の公衆電話から実家の父へと連絡を入れた際、受話器の向こうから父の、何処か困惑したような声が響いた。
「……おい、お前、今は離れに居るのではないのか」
A君は怪訝に思い、自分は今、外に居るのだと答えた。すると、父の返答は、彼の背筋に冷たい氷の刃を突き立てるようなものであった。
「……おかしい。さっきから、お前の部屋の方で、若い女の声がするのだ。それも、お前の名をしきりに呼び続けている。おーい、A君、A君、とな……」
A君は僅かな不気味さを覚えたが、当時は震災後の混乱期である。近所の娘が何か用事で訪ねてきたのだろうと、己を納得させた。しかし、夕闇が街を黒く塗り潰す頃、帰宅した彼を待っていたのは、更なる戦慄であった。
母屋の縁側に佇んでいた母親が、A君の姿を見るなり、幽霊でも見たかのように目を見開いたのである。
「あれ、あんた、外に出ていたのかい? てっきり部屋に居るものと思って……」
母親の言葉によれば、彼女もまた、離れから響く不可解な声を聞いたと云うのだ。
「……だって、あんたの部屋から、あんなに熱心に女の子の声がしていたじゃないか。A君、A君、助けて、A君……。あんたに縋り付くような、湿った声でね」
A君の全身から、さあっと血の気が引いていくのが判った。父と母は、互いに口裏を合わせた訳ではない。別々の時間に、確かに「其処に居ない筈の女」が、自分の名を呼ぶ声を聴いたのである。
A君は、己を下の名前で呼ぶ知人の顔を、片端から思い浮かべてみた。しかし、土佐の厳格な気風の中で育った彼は、平生から苗字で呼ばれるのが常であり、親しい友人であっても、下の名で呼び捨てるような女心当たりは一人として居なかった。
彼は意を決し、懐中電灯を手に、闇に沈む離れの戸を開けた。
部屋の中は、昼間の熱気が抜けた後のような、形容し難い冷気に満ちていた。畳の上には、何故か僅かな「潮の匂い」が漂っている。そして、彼が机に目をやった時、彼は危うく絶叫しそうになった。
そこには、濡れた小さな指でなぞったような、一筋の水の跡が残っていたのである。
後になって判った事だが、その震災の日、高知を襲った津波によって、近辺では多くの若い命が奪われていた。中には、家族と離れ離れになり、泥濘の中で絶命した幼い娘も居たに相違ない。
その少女の霊が、何故A君を選んだのか。それは判らない。ただ、暗い海の底に沈んだ孤独な魂が、偶然見つけた生者の灯火に惹かれ、救いを求めて彼の名を呼び続けたのではあるまいか。
A君はその後、離れの部屋を払い清めさせたが、今でも霧の深い夜になると、耳の奥底で、あの湿った、悲しげな声が聞こえるような気がすると云う。
「……A君、A君……」
それは恨みではなく、ただ、忘れ去られる事を恐れる死者の、切なすぎる叫びなのかもしれない。
芥川は、或いはこう結ぶだろう。
「我々が幸福に享受している平穏のすぐ裏側には、常に不条理な死の深淵が口を開けている。一度震災の火が灯れば、我々は皆、その深淵から伸びる青白い手に、いつ名前を呼ばれてもおかしくはないのだ」と。




