「倒壊した家」
或る夏の夜の事である。私は知己の新聞記者から、一風変わった、それでいて背筋の凍るような物語を聴かされた。それは大正の末、震災の傷跡がいまだ都の隅々に膿のように溜まっていた頃の、ある陸軍省軍務局に勤める若き書記官の体験である。
その男――名を仮にSとしよう。
Sは実務に長けた怜悧な男で、およそ幽霊だの祟りだのといった、非科学的な迷信を歯牙にもかけぬ性格であった。当時、彼は内務省の命を受け、かの大正十二年の大震災における被害記録の編纂という、砂を噛むような退屈な業務に従事していたのである。
山と積まれた埃臭い古写真や、血と煤に汚れた報告書の束。それを検分していた或る日の午後、Sの指が、一枚の写真の前で不意に止まった。
それは、本所深川の辺りであろうか。火災旋風に煽られ、見る影もなく押し潰された一軒の木造家屋の成れの果てであった。崩れた梁は、まるで巨大な蜘蛛の足のように天を指し、焼け焦げた壁には、死者の絶叫を封じ込めたような黒い煤がこびりついている。
Sはその写真に、得体の知れぬ不気味な引力――あたかも深淵が覗く者を招き入れるような、粘り気のある視線を感じた。彼は薄気味悪さを覚えながらも、その夜は宿直であったため、省内の冷え冷えとした寝所に身を横たえる事となった。
夜中の二時を過ぎた頃である。
時計の針の刻む音が、やけに大きく脳髄に響く。外は風一つなく、静寂が墓場のように沈み込んでいた。Sは寝返りを打ったが、瞼の裏にあの「倒壊した家」の残像が焼き付いて離れない。
ふと、部屋の空気が凍りついた。
暗闇の中に、一つの「影」が立っていた。
それは、戸の隙間から忍び込んだ煤煙のように形を成し、ゆっくりと、音もなく畳を這うように近づいてくる。
不思議な事に、Sは恐怖を感じなかった。いや、恐怖という感情を司る神経が、氷の針で刺し貫かれたように麻痺していたのかもしれぬ。
影が近づくにつれ、それが一人の、酷く腰の曲がった老婆である事が判った。その姿は、まるで焼け跡の泥の中から這い出してきた怨霊そのものである。顔は見えぬ。ただ、頭髪は火に炙られた縮れ毛のように逆立ち、そこからは言いようのない悲哀と、死の臭気が漂ってくる。
「……お……お……」
言葉にならぬ呻きが、老婆の喉の奥から漏れる。それは恨みというよりは、永遠の闇に閉じ込められた者が発する、救いのない渇望の声であった。老婆は指先を震わせ、Sの顔へ、その骨張った手を伸ばしてくる。
その時である。Sの生存本能が、麻痺した理性を突き破って叫んだ。
「危ない!」
彼は無我夢中で、眼前に迫った冷たい質量を両手で押し退けた。指先に触れたのは、肉の温もりではない。氷よりも冷たく、そしてザラリとした、何かが焦げた感触であった。
Sの意識はそこで暗転した。
翌朝、窓から差し込む無慈悲な朝日の中で目を覚ましたSは、昨夜の出来事を「悪い夢」として片付けようとした。彼は苦笑しながら起き上がろうとし――そして、凍りついた。
彼の両腕。手首から肘にかけて、まるで黒い蛇が幾重にも巻き付いたかのように、大量の「炭」がこびりついていたのである。 それはただの炭ではない。木の節や、かつての家屋の記憶を宿したような、生々しく、熱を持ったまま冷え固まったような、呪わしい黒炭であった。Sが震える手でそれを拭おうとすると、炭は彼の皮膚を焼き切るような鋭さで剥がれ落ち、部屋中に死の灰を撒き散らした。
あの中宮の庭を思わせる雅な日常の裏側に、こうした凄惨な闇が口を開けているのだ。
あの写真の老婆は、おそらく業火の中で、己が家と共に押し潰され、誰にも看取られぬまま炭となったのであろう。彼女は助けを求めたのか、それとも、独りで逝く寂しさに耐えかね、若き生者の魂を道連れにしようとしたのか。
Sはそれ以来、写真を見る事を極端に恐れるようになった。彼の腕に残った煤の跡は、いくら洗っても完全には消えず、雨の降る夜には、今も焼け焦げた木の匂いが仄かに立ち昇るという。
世の中には、理屈では語れぬ因縁というものが、確かにある。大正という華やかな時代の陰に、未だ成仏できぬ無数の影が、煤に塗れた手を伸ばしているのかもしれない。
芥川は、或いはこう結ぶであろう。
「人生は地獄よりも地獄的である。が、死者の抱える地獄は、それ以上に救い難いものに相違ない」と。




