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龍之介の怪談  作者: 橋平 礼
『長屋の怪』

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「軍靴の音」


或る大正から昭和へかけての、どんよりと湿った初秋の夜の事である。


私は或る古参の将校から、東北の果て、青森の山中にひっそりと佇む、帝国陸軍の古びた分屯舎に纏わる奇怪な物語を聴かされた。それは、理知を重んずべき軍隊の内部に、膿のように溜まった不可解な闇の記録である。


その男――名を仮にKとしよう――は、入隊して間もない初年兵であった。


折しも青森の地は連日の豪雨に襲われ、土崩れが村々を呑み込み、濁流が鉄路を断っていた。Kたちの部隊は災害復旧の命を受け、勇躍して現地へと赴いたのである。若き血気に逸るKにとって、それは国家の難局に当たる誇らしい初陣のような心持ちであった。


滞在先として割り当てられたのは、山裾に打ち捨てられた、今は使われていない古い木造の分屯舎であった。建物の外壁は、湿った苔とカビに覆われ、まるで巨大な病人の皮膚のように見えたという。夜風が吹くたびに、窓硝子はカタカタと歯の根の合わぬ音を立て、長い廊下の突き当たりは、ランプの光も届かぬほど深い闇に沈んでいた。


「おい、新兵。突き当たりのあの部屋にだけは、決して近づくんじゃないぞ」


古参の兵が、顔を歪めて忠告した。その声は低く、まるでおぞましい秘密を吐き出すかのような響きを帯びていた。しかし、若さというものは時に、毒よりも質の悪い好奇心を抱えるものである。禁じられれば禁じられるほど、その扉の向こうに潜む「何か」が、甘美な誘惑となってKの心を蝕み始めた。


或る深夜、激しい雨音に紛れ、Kは抜き足差し足で廊下の奥へ向かった。一歩踏み出すごとに、床板が「ギィ、ギィ」と断末魔の悲鳴を上げる。


突き当たりの扉は、漆黒の闇の中でじっと彼を待っていた。Kが震える手で真鍮の取っ手を回そうとしたが、扉は厳重に施錠されており、びくともしない。


冷たい錠前が、彼の卑俗な好奇心を拒絶しているかのようであった。Kは舌打ちをして己の寝床へ引き返したが、その背後で、確かに「カチリ」と、乾いた金属音が響いたような気がしたのである。


異変が始まったのは、その翌夜からであった。


寝苦しい熱帯夜、Kはふと、己の枕元に「誰か」が立っている気配を感じて目を覚ました。目を開けても、そこには埃っぽい天井があるばかりである。


しかし、胸の上に重苦しい圧迫感があり、空気は腐った沼のように淀んでいた。翌晩には、その気配はより確かな実体となって現れた。闇の中から、無数の軍靴の音が聞こえてくるのだ。泥を啜るような、湿った足音である。それが廊下から、彼の枕元まで這い寄ってくる。


Kの体調は、見る間に衰えていった。頬はこけ、眼窩は黒く沈み、食事を摂れば砂を噛むような味がした。彼の視界の端には、常に泥まみれの軍服を着た男たちの影が、ゆらゆらと陽炎のように揺れていた。


「……だから言ったのだ、あの部屋には触れるなと」


衰弱し切ったKを見下ろし、先輩兵は忌々しげに吐き捨てた。その眼には同情よりも、むしろ逃れられぬ宿命を見た者の諦念が宿っていた。


実は、その分屯舎には凄惨な過去があったのである。昭和の幕開け間もない頃、狂気に取り憑かれた一人の兵卒が、突如として小銃を乱射したのだという。弾丸は薄い壁を貫き、突き当たりの部屋で休息していた数名の兵士たちの肉体を、無慈悲に引き裂いた。血飛沫は天井まで達し、畳は吸いきれぬ鮮血で池のようになった。死んだ兵士たちは、己が何故殺されたのかさえ理解できぬまま、冷たい床の上に骸を曝したのである。


先輩兵たちは、半死半生のKを車に乗せ、近隣の古刹へと運び込んだ。車中、外の景色は霧に煙り、時折、窓の外に泥だらけの手が張り付くのが見えたとKは述懐している。


古刹の住職は、Kの顔を見るなり、激しく数珠を揉んだ。


「これは、恨みではない。ただ、寂しいのだ。自分たちが此処に居たことを、誰かに認めてほしいだけなのだ」


……住職の唱える読経の声が、堂内に激しく響き渡った。線香の煙が渦を巻き、Kの体からどす黒い影が引き剥がされていくような感覚があった。


不気味なことに、除霊が済んだ途端、Kの体調は奇跡のように快復した。しかし、彼の心には、一生消えぬ深い傷痕が残った。


復旧支援の任務を終え、その分屯舎を去る日。Kは最後にもう一度だけ、あの廊下の奥を振り返った。そこには相変わらず、深い闇が澱んでいた。だが、彼は悟ったのである。あの闇の中に居るのは、怪物でも化け物でもない。ただ、不条理な暴力によって未来を断たれ、泥に塗れて忘れ去られた、哀れな若者たちの残影なのだと。


芥川は、或いはこう結ぶかもしれない。


「我々が生きているこの地上の一枚下には、常にこうした無念の血が流れている。我々はただ、その薄皮一枚の上で、危うい均衡を保ちながら踊っているに過ぎないのだ」と。


Kはそれ以来、暗闇に対して異常なまでの敬意を払うようになり、二度と、禁忌の扉を叩くことはなかったという。青森の山々に降る雨は、今もあの古びた舎の血痕を、洗い流せずにいるのだろうか。


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