第一章:伍号棟の沈黙、あるいは文の埋葬
あれは私が若かりし頃、今は亡き旧友の平吉から聞いた話である。平吉の実家は江戸の場末、本所深川の辺りにあったが、家計が苦しく、幼少期は「九尺二間」のうらぶれた長屋を幾棟も連ねた、それは陰惨な場所に住んでいたという。
その長屋は、昼なお暗く、壁には蜘蛛の巣が這い、建付けの悪い戸は風が吹くたびに、まるで死者が歯を鳴らすような音を立てていた。里の噂では、その地はかつて無縁仏の墓所であったとも、身投げの女が打ち捨てられた場所だとも囁かれ、近隣の者は「化け物長屋」と呼んで忌み嫌っていた。
数ある棟の中でも、とりわけ「伍の棟」だけは異様であった。
そこに入居する夫婦は、一月も経たぬうちに必ず縁が切れ、離縁して出ていくという。平吉の住む「肆の棟」のすぐ隣であったゆえ、夜中に激しい諍いの声が聞こえたかと思えば、翌朝には荷車が止まり、空室になる。そんな光景が繰り返されていた。
平吉がその地を去ることになった十四の春、彼は長屋の隅にある荒れ果てた地蔵堂の側で、一人の見慣れぬ童に出会った。
その童は、十ばかりに見えたが、陽光の下でも顔色が病的に白く、うつむいたまま、一心不乱に地面を掘り返していた。平吉が声をかけると、童は空ろな瞳を向け、「……私の、大事なものを見せてあげよう」と、掠れた声で囁いたのである。
童が地蔵の台座の陰から取り出したのは、錆びついた手箱であった。
蓋を開ければ、中にはおびただしい数の「文」が詰まっていた。白、桃、茶……色も紙質も様々だが、どれも泥に汚れ、執念を吸い込んだように重苦しい。
平吉がその一通を手に取ると、流麗な、しかし力の入りすぎた筆跡で、ただ一行、こう記されていた。
『子をください』
戦慄して次をめくれば、そこにも『子が欲しい』『子が足りぬ』と、飢えた獣のような言葉が並んでいる。中には、筆先が紙を突き破らんばかりの乱れた文字で、『なぜ、くれないのですか』と、怨嗟をぶつけたものさえあった。
童は、それを愛おしそうに撫でながら、法悦に近い微笑を浮かべてこう云った。
「これは、私のお母様が書いたもの。私はもうすぐ、本当のお母様のところへ行くんだよ」
平吉は、その童が「伍の棟」へ新しく越してきた住人の子であることを知り、何とも言えぬ嫌悪感に突き動かされ、逃げるようにその場を去った。
あの文の束は、長屋に住み、子を得られぬまま狂い死んだ幾多の女たちの「祈り」の成れの果てであったのか。あるいは、長屋そのものが「子」を喰らい、代わりに母たちの狂気を溜め込んでいるのか。
平吉は後に、あの童の「本当に嬉しそうな顔」が、どの幽霊よりも恐ろしかったと述懐している。




