第二章:黄泉(よみ)の招き、あるいは指先の過ち
私は、凍りついたように動けなくなりました。
久米の声は、次第に鮮明に、執拗に私の名を呼び続けます。
「芥川さん、開けてください。暗くて、冷たくて、どうしようもないのです。あなたなら、助けてくれるでしょう?」
理性は「開けるな」と叫んでおりました。しかし、亡き友の悲痛な訴えに、私の心は揺さぶられました。もし、あの日死んだはずの彼が、この壁一枚隔てた向こう側に囚われているのだとしたら。
私は、震える指先を襖の縁にかけました。
主の警告が頭をよぎりましたが、それ以上に、親友の声が持つ「死の芳香」が、私の意志を麻痺させていたのでございます。
「久米……そこにいるのか」
私が襖をわずかに引いた瞬間、部屋の中に、湿った土の臭いと、腐った花の入り混じったような、言語に絶する悪臭が溢れ出しました。
隙間から覗いた隣室には、家具一つなく、ただ暗緑色の闇が蠢いておりました。
そして、その闇の底から、白い、肉の削げ落ちた「手」が伸びてきたのでございます。
その手の主を見た瞬間、私は悲鳴さえ上げることができませんでした。
そこには久米の顔がありましたが、それは私の知る彼ではございませんでした。眼窩は虚ろに落ち窪み、口元は裂け、そこから溢れ出すのは言葉ではなく、無数の蠢く蛆と、暗い「雑踏」のような異音ばかりであったのです。
「やっと……見つけた……」
そいつが私に触れようとした刹那、私は無我夢中で襖を閉め、宿を飛び出しました。背後では、あの老婆の哄笑とも、死者の呪詛ともつかぬ叫びが、山々に木霊しておりました。
翌朝、ふもとの村に辿り着いた私は、あの宿が十年も前に火災で焼け落ち、今は廃墟となっていることを知らされました。
では、私が昨夜泊まったのは、一体どこだったのでしょうか。
今、あなたの部屋の扉の向こう側で、誰かがあなたの名前を呼んではいませんか?
その声は、本当に、生きている者の声でしょうか。
それとも、あなたが「開けてはならない」場所へ、あなたを誘おうとする、死者からの招待状でしょうか。




