第一章:襖(ふすま)の隔絶、あるいは禁忌の宿
あれは私が二十歳の頃、信州の山深くにある、古びた湯治宿を訪れた際の話でございます。
その宿は、街道から外れた崖っぷちに、今にも崩れ落ちそうな危うい姿でへばりついておりました。宿の主は、骨と皮ばかりに痩せこけた老婆で、濁った眼で私を一瞥するなり、嗄れた声でこう告げたのでございます。
「お客人、お二階の突き当たりの部屋へ通します。……ただし、その隣の部屋の襖だけは、いかなる理由があろうとも、決して開けてはなりませぬよ」
私は、田舎の宿特有の迷信か、あるいは単なる物置であろうと高を括り、生返事をして二階へと上がりました。
私の通された部屋は、畳も煤け、行燈の灯も頼りない陰気な一室でございました。そして老婆の言った通り、隣の部屋との境には、およそこの世のものとは思えぬほど古びた、黒ずんだシミの浮き出た襖が、固く閉ざされておりました。
夜が更けるにつれ、山特有の不気味な静寂が、部屋の中にまで浸食して参ります。外では風が木々を揺らし、あたかも大勢の亡者が啜り泣いているような音が響いておりました。
ふと、私は耳を疑いました。
――トントン。トントン。――
隣の部屋から、畳を叩くような、規則正しい音が聞こえてくるのでございます。
(誰もいないはずの部屋に、誰かいるのか)
一度気になり始めると、私の神経はその音に釘付けとなりました。
主の忠告など、好奇心の前では霧散してしまいます。私は息を殺し、隣室の様子を伺いました。
すると、襖の向こう側から、掠れた、しかし聞き覚えのある声が、微かに漏れてきたのでございます。
「……芥川さん……芥川さん……」
私は戦慄いたしました。その声は、三年前の夏に、不慮の事故で亡くなったはずの親友・久米の声に、あまりにも酷似していたからでございます。




