第一章:深夜の遊園、あるいは自動販売機の燐光(りんこう)
大正も末の頃、ようやく普及し始めた自動車の運転免許を手にれたばかりの若者にとって、その鋼鉄の箱は単なる移動の手段ではございませんでした。それは、雨風を凌ぎ、冬の寒さを撥ね退ける、いわば移動する私室、己が欲望をどこまでも運んでゆく魔法の箱であったのです。
ある夏の夜、私は友人たち数人と連れ立って、西の下町にある古い動物園へと向かいました。
そこは昼間こそ、色とりどりの着物を着た観光客や、甘酒を啜る子供たちの声で賑わう場所でございますが、深夜となれば話は別です。街の灯は遠のき、巨大な檻や獣舎が、沈黙する巨獣のように闇の中に蹲っている。
地元の人間というものは、昼間の観光地には見向きもいたしませんが、夜の帳が下りた後の、その「異形の姿」には、得も言われぬ魅力を感じるものでございます。
私たちが辿り着いたのは、動物園の隅にある広々とした空地でございました。
当時、そこには西洋から渡ってきたばかりの「自動販売機」が、幾枚も並んで設置されておりました。漆黒の闇の中で、その機械だけが不気味な燐光を放ち、文明の異様な香りを漂わせて立っている。
私たちは車を止め、その淡い光の傍らで、煙草を燻らせ、安価な瓶の飲物を片手に、他愛もない放談に耽っておりました。
時折、遠い海から打ち寄せる波の音が、不気味な拍動のように響いて参ります。大正の若者特有の、根拠のない全能感と、深夜の開放感。私たちは、自分たちが世界の主であるかのような錯覚に陥っていたのでございます。
その時でした。 微かな波の音を裂いて、耳を刺すような音が届きました。
「――キャアアアアッ!」
それは、まぎれもない女の悲鳴でございました。
私たちは一瞬にして静まり返りました。
「……今のを聞いたか」
「ああ、聞こえた。確かに、女の声だ」
連れてきた女の友人たちも、顔を蒼白にして同じ方向を指差しました。その指が示した先には、夜の闇に白く浮かび上がる、巨大な石造りの檻――「白熊の池」がございました。
「まさか、誰かが白熊に襲われているのではあるまいな」
「馬鹿を言え。こんな夜中に、白熊の池に飛び込む酔狂な女がどこにいる」
「だが、あの声は……」
私たちは、暗黒の檻を凝視いたしました。
しかし、中へ踏み込む勇気はございませんでした。もし中に踏み込んで、警察の沙汰にでもなれば、明日の仕事や学業に差し支える。若さゆえの自己中心的な保身が、私たちの足を泥のように重くいたしました。
「空耳だろう。きっと、どこかの鳥が鳴いたのだ」
誰かがそう吐き捨てると、私たちは逃げるように車へ乗り込み、その場を後にしたのでございます。




