第二章:夕刊の報せ、あるいは白熊の檻の深淵
翌日の夕刻でございます。
下宿先で昨夜の余韻に浸っていた私の元へ、友人から取り乱した様子で電話がかかって参りました。 「おい、今すぐ夕刊を見てくれ。無ければ活動写真館の前の掲示板でもいい、ニュースを確認するんだ」 私は胸の騒ぎを覚えながら、新聞を開きました。そこには、私の血の気を一気に引かせる記事が躍っておりました。
『動物園の白熊池に、婦人の惨殺体――』
記事によれば、今朝早く、あの石造りの池の底で、一人の若い女の亡骸が発見されたというのです。 彼女は白熊に食い殺されたのではございませんでした。鋭利な刃物で幾度も刺し貫かれ、絶命した後に、隠蔽のためにあの冷たい池へと投げ込まれたのだそうです。
私は、震える手で受話器を握りしめました。
(あの時、私たちが聞いたのは、彼女が最後に上げた、この世の終わりの叫びだったのだ)
私たちが、煙草を呑み、笑い興じていた、わずか数十尺の向こう側で、一人の人間が肉を引き裂かれ、地獄の苦しみの中で息絶えようとしていた。私たちが「面倒だ」と背を向けた、その一分、一秒があれば、彼女の命は救われていたかも知れない。
「どうする。警察へ届けるか」
友人の声は、震えておりました。
「今更、何を言えるのだ。死体が見つかった後で、『私たちは悲鳴を聞きましたが、放っておきました』などと、どの面を下げて言える」
結局、私たちは沈黙を守る道を選びました。
しかし、その日から、私の心の中には、決して拭い去ることのできない「嫌な気分」が、黒い澱のように沈殿いたしました。
あれから長い年月が経ちましたが、今でも夏の夜、風が遠い波の音を運んでくるたびに、私はあの燐光を放つ自動販売機と、あの白く冷たい白熊の池を思い出します。
そして、耳の底で、あの女の悲鳴が蘇るのです。
「助けて」とは言わなかった。ただ、この世のすべての理不尽を呪うような、あの鋭い叫び。
今、あなたの部屋の窓を叩いているのは、果たしてただの夜風でしょうか。
それとも、あの時私たちが無視した、死者の執念が、今ようやくあなたを訪ねてきたのでしょうか。




