31 哄笑
シエルの部屋の露台から垂れ下がるカーテンの縄を、リュスがじっと見つめている。
表情は無の状態に近いように見えるが、時折頬がピク、ピクと痙攣していることから、負に寄った感情を持っていそうだとシエルは感じた。そして今更ながらに、上等であることは間違いないカーテンを使い物にならなくしてしまったことに思い至る。
アルバイン領は、決して豊かではないのだ。なのに、いくらリュスを助ける為とはいえ、高価な物をこんな乱雑に扱ってしまった。もっと事前から準備をしておけば他の選択肢もあったのではと後悔しても、もう遅い。
(しまった……! 私ってば、何故もっと早く動こうとしなかったの……!)
折角リュスに夢の話を信じてもらえそうだったのに、これだからブランデンブルグの贅沢者はと思われてしまうのではないか。
だが、次の瞬間。
シエルの想像を遥かに超える出来事が起きた。
(えっ?)
シエルを抱えるリュスの身体が、小刻みに震え出す。
「……く……くく……っ」
リュスは顔を横に向けると、シエルから顔を隠すようにして伏せた。何が起きているのか、シエルには咄嗟に判断ができなかった。
(リュ、リュス様……? 一体どうされたのかしら?)
まさか、どこか怪我でもして痛むのか。ならば自分は降りるべきなのでは、とシエルが内心慌て始めると。
突然、リュスが伏せていた顔を上げ、天を仰いだ。
「はは……っ、あははははっ!」
「えっ!?」
驚きのあまり、思わず声が漏れる。
「カ、カーテンを使って……! ふっ、ふふ、シエル、なんてことをしたんだ……っ、あははははっ!」
なんと、あの冷徹辺境伯と呼ばれるほどに無愛想なリュスが笑っているではないか。しかも、屈託なく。
しかし何故リュスはこんなにもおかしそうに笑っているのか。理由が思い当たらない。
「も、申し訳ありませんっ! ほ、他に思いつかなくて……!」
とにかくカーテンを乱雑に扱ってしまったことを謝罪しなければと思ったシエルは、謝罪を口にした。
だが、リュスは聞こえていないのか、ひたすら笑い続けている。
「ふは、くくくくっ……! 仮にもブランデンブルグの令嬢がカーテンを伝って脱走……!? 火かき棒を持って? はははっ!」
ヒイヒイと苦しそうに笑い続けるリュスの姿は、日頃のリュスを知る者の目から見てもあり得ないものなのだろう。周囲を走り回っていた兵たちが、足を止めて驚いた様子でリュスを見ている。
それは、居館前でシエルたちが来るのを待っていたクラウスとエリザも同様だった。二人とも、びっくりしすぎて目が飛び出そうになっている。
「ははっ、……ふうー……」
リュスは暫く笑い続けた後、息を整える為か深呼吸を繰り返した。
日頃は氷のようにも思える温度が感じられない筈の紫の瞳は、今は緩やかに綻んでいる。笑いすぎからか、目尻が微かに濡れていた。潤んだ瞳に月光が反射し、あまりの美しさにシエルの視線は釘付けになる。
ようやく落ち着いたリュスが、腕の中のシエルを見下ろす。穏やかな笑みを浮かべたまま。
「……シエルは思っていたよりも大胆な人間だったのだな」
「えっ!? あのっ、その……っ」
この一連の行動を見て、淑女が取るべき行動ではないと思われているのかもしれない。確かにどう考えても、淑女の模範的行動からは思い切り外れている。
「あの……っ」
これまでのシエルだったら、ここで黙ってしまっていただろう。ブランデンブルグでは言い返すなど以ての外だったし、シエルが反論することで相手に不快な思いをさせたらと思うと、ずっと怖かったから。
だが、シエルはどうしてもこれだけは伝えたかった。
意を決し、気を抜いた瞬間に目を逸したくなる己の弱い心を鼓舞し、すぐ近くにあるリュスの端正な顔を見つめる。
「わ、私は、どんなに常識からずれた行動を取ったのだとしても……、こ、後悔はしていません!」
「……シエル?」
リュスの顔から、笑みが消えた。代わりに浮かぶのは、驚いたような表情だ。
「た、確かに、私の取った行動は、淑女としてあるまじきものです……でも!」
リュスの目は大きく見開かれたまま、じっとシエルを見返している。
「淑女の嗜みよりも、リュス様と衛兵さんたちの命を救えた方が重要ですから!」
――言えた! 言いたいことをきちんと主張できた、とシエルは込み上げる嬉しさを感じていた。
そうだ。たとえシエル自身が蔑まれようとも、大切な人の命より大切なものはないのだ。だから胸を張って言えたのだ。
ただひとつの問題を除いて。
「……カーテンを使い物にならなくしてしまったのは、その、申し訳ないと思ってますが……」
「それを言うなら、カーテンよりもシエルの無事の方が重要だな」
「え? 私ですか?」
どうしてここに自分が出てくるのか。不思議に思い問い返すと、リュスは口の端を微かに上げ、颯爽と歩き出す。
「……それについては、明日話そう」
「は、はい……?」
明日になれば、リュスの考えも伝えてくれるのだろう。
(とりあえず、終わった……!)
ここまでの数日は連日の悪夢と焦燥感で、ちっとも心が休まっていなかった。リュスの命を救うことができて安心したからか、急激に脱力していく。
リュスの温かい身体にもたれると、瞼が自然と落ちていった。
「……シエル?」
日頃よりも柔らかく感じられるリュスの声を聞いたのを最後に、シエルの意識は深く沈んでいったのだった。
◇
翌日、シエルは朝寝坊をした。
カーテンがなくなっている窓から差し込む陽の光の角度で、時刻がもう昼近くなことに気付く。
「……えっ!?」
驚きのあまり飛び起きると、すぐにエリザが飛んできた。
「シエル様、よくお眠りになられてましたね」
「やだわ……もうお昼なのに、ごめんなさい」
いくらシエルには領主の妻としての役割が何も与えられていないからといって、昼間で呑気に寝てはさすがに外聞が悪い筈だ。
「すぐに起きるから」
慌てて寝台から降りようとすると、エリザがシエルの肩に手を置き押し戻す。
「昨夜は遅かったのですから、身体が休息を求められていたんですよ」
「で、でも」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべたエリザが、そっとシエルの手を両手で包んだ。
「……悪夢は終わられたのですね。私だけはシエル様を信じて差し上げなければならなかったのに、これまで心に負った傷のせいで酷い夢を見ているのだと思い込んでおりました」
「エリザ……」
そうか、とシエルは気付く。もしかしたら昨夜も何かしらの夢は見ていたのかもしれないが、明晰夢は見なかった。これに関しては断言できる。
エリザはこれまで、シエルが寝ている間にうなされ続けているところを見てきたのだ。仕える相手が毎日うなされるのを見て、心優しいエリザはずっと心を痛めていたに違いない。そんな時、これは未来に起こることなのだと話し始めたら、心身に限界がきたのだと思われてもおかしくはない。
「ううん、みんなの反応が普通だったのよ」
シエルは今の今まで、エリザの視点に立って自分がどう見えるかなど考えたこともなかった。ブランデンブルグで過ごした期間、シエルは自分に全ての元凶があるのだと思うことでシエル自身の心を守ってきた。それは必要なことではあったが、と同時に相手の立場に立って考えることを放棄していたのだと思う。
自分だったらどうかと考えてみて、ようやく分かった。エリザもリュスも、シエルがおかしくなったとはきっと思っていなかった。これまで沢山の辛いことを経験したシエルを、とにかく休ませてあげたいと思ってくれていたのだろうと――本当に、今更ながらに思えるようになった。
――昨夜見せてくれたリュスの哄笑と共に、曇っていたシエルの視界が晴れた気がする。
アルバインに受け入れられたのだと、シエルが心から思えた瞬間だった。
エリザの瞳が潤む。
「ですがっ」
「ううん、私がもっとはっきりと理論立てて説明できていればよかったんだわ」
「いえ! 決してシエル様のせいではございません!」
エリザがシエルに抱きつくと、シエルもエリザに抱きつき背中に回した手をぎゅっと引き寄せた。
「……エリザ、ありがとう。心配させてごめんなさい」
「シエル様……!」
エリザの温かさを幸せに感じ、シエルは瞼を閉じると暫しその優しい温かさを味わうことにしたのだった。
次話は来週月曜日投稿予定です。




