第42話:白い天井の森
二十一層への階段を降りた瞬間、光があった。
思わず目を細めた。
天井が——白かった。
白く、ぼんやりと光っていた。光の石が一つあるわけではない。天井全体が発光していた。乳白色の柔らかい光だ。どこまで続いているのかわからない。見上げても端が見えない。
高い。
十層の洞窟天井より、ずっと高い。
「明るい……」
リアが目を細めながら言った。
「沼地帯とは全然違う」
「ああ」
空気が変わっていた。湿気はある。でも沼地帯の腐敗した湿気ではない。緑の匂いだ。土と、草と、木の匂いが混ざっていた。
前方に広がる光景を見た。
木が生えていた。
巨大な木だった。幹が五メートル以上ある。根が地面に深く張り出していた。葉が広い。その葉が重なり合って、地面に斑点状の影を作っていた。
どこまで続いているのかわからない。
森だった。
完全な地下空間なのに——森だった。
「でかい……」とドラが言った。
「二十層までとは別の世界だ。戦い方を全部変える」
「何が変わる」
「まず視界が変わる。洞窟は通路だから前後左右が基本だった。ここは三百六十度と、上下がある。木の上から来る可能性がある。足元の根に躓く可能性がある」
リアが目を閉じた。
一秒。
二秒。
三秒。
目を開けた。表情が変わっていた。
「……すごい。風が全然違う。洞窟は通路の形に沿って流れるだけだったけど——ここは立体的に動いてる。木の間を縫いながら、上から下から、いろんな方向から流れてくる」
「感知しやすいか」
「洞窟より全然感知しやすい。空気の流れが多い分、どこに何があるかわかりやすい。……百メートル先まで、かなりはっきり見える気がする」
「それは大きい。お前が索敵の主軸になる」
リアが少し背筋を伸ばした。
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最初の遭遇は、進んで十分後に来た。
「上にいる」とリアが言った。「……大きい。木の上に乗ってる。こっちを見てる」
俺は木の上を見た。
いた。
木の枝の上——地面から十メートル以上の高さに、それはいた。
猿に似ていた。でも体長が二メートルはある。全身が灰色の毛で覆われていた。腕が長い。爪が鋭い。俺たちを見下ろして、低く唸っていた。
「《樹上猿》か」
「名前知ってるの?」とエリスが言った。
「ガロから山林地帯の話を少し聞いていた。木の上から奇襲する。群れる。縄張りに入ると仲間を呼ぶ」
「仲間を呼ばれる前に倒す方がいいってこと?」
「ああ。ただし木の上から来られると対処が難しい。リア、射てるか」
「射てる。でも枝に隠れてる部分が多い。体の三割くらいしか見えない」
「どこが見えている」
「右肩と頭の一部」
「頭を狙え。躊躇するな」
「……わかった」
リアが弓を構えた。目を閉じた。
風を読む。木の上の《樹上猿》の位置。枝の隙間から通る風の軌道。矢が枝に当たらない角度。
一秒。
放った。
矢が、木の枝を縫うように飛んだ。
《樹上猿》の頭部に当たった。
落ちた。
「……枝に当たらなかった」
「風で軌道を変えたのか」
「少しだけ。木の間の気流を利用した。矢を乗せた感じ」
「それができるなら——森の中での戦闘で強い」
「嬉しい」
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だが、《樹上猿》は一匹ではなかった。
倒した瞬間——遠くから、叫び声が響いた。
仲間を呼ぶ声だ。
「来る」とドラが言った。「複数。……五匹以上だ」
「リア、上を警戒しろ。エリス、足場の管理を頼む。根が多くて躓きやすい。ドラ、正面。俺は——」
地面が揺れた。
違う揺れだった。
足音だった。
重い。
違う種類の魔物が来る。
「左前方から——でかいのが来る!」とリアが叫んだ。
木々の間から、それが現れた。
四足歩行。体長四メートル。全身が緑がかった鱗で覆われていた。頭が大きい。顎が発達している。後ろ足が短く、前足が長い。尾が太く長い。
恐竜だった。
前世の記憶にある恐竜——ティラノサウルスではない。もっと低く、横に広い体型だ。でも顎の力は相当だ。一噛みで骨ごと砕ける。
「《鱗走竜》だ。正面から来る。散開するな——」
《鱗走竜》が口を開けた。
炎が出た。
「——火を吐く!」
「エリス!」
「障壁——!」
白い光が四人を包んだ。炎が障壁に当たって散った。
「火を吐く竜型か。どう倒す」とドラが言った。
「目と喉が弱点のはずだ。ただし頭に近づくと炎を吐かれる。側面か尾を狙う」
「尾か。わかった」
ドラが左側に回り込んだ。
その間に——《樹上猿》の群れが上から来た。
「リア、上を頼む!エリスは《鱗走竜》の前足の足場を崩せるか!」
「やってみる——!」
エリスが地面に手をついた。紫の魔力が広がった。《鱗走竜》の前足の足元の根が持ち上がった。足がよろめいた。
俺は《鱗走竜》の側面に向かって走った。
黒炎弾を準備した。
親指を立て、人差し指を前に伸ばした。
鱗の継ぎ目——前足の付け根の脇腹——に向けて黒炎弾を放った。
ズドッ——。
鱗が焼けた。貫通はしない。でも確かにダメージが入った。
「ドラ!」
「行く——!」
ドラが《鱗走竜》の尾の付け根に向かって双剣を叩き込んだ。
一本が弾かれた。もう一本が継ぎ目に入った。
《鱗走竜》が大きく振り返った。
ドラに向かって炎を吐こうとした。
俺は《鱗走竜》の頭に向かって黒炎弾を三連続で放った。
頭部に当たった。目の近くだ。
《鱗走竜》が動きを止めた。痛みで混乱している。
「リア——喉!」
「風が通ってる場所が見えた——!」
ウィンドアローが飛んだ。
《鱗走竜》が炎を吐くために開けた口の中——喉の奥——に矢が吸い込まれた。
《鱗走竜》の動きが止まった。
ゆっくりと、倒れた。
地響きがした。
上からは——リアが《樹上猿》の群れを一匹ずつ仕留めていた。五匹が木から落ちていた。
「全部か」
「全部」とリアが言った。弓を下ろしながら、少し息が上がっていた。「……上と正面と同時は難しかった」
「よく捌いた」
「ドラが尾を押さえてくれてたから、ケンジの黒炎弾が頭に届いた。連携だね」
「そうだ」
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《鱗走竜》の素材を回収した。
鱗が硬かった。収納袋に押し込んだ。ボスではないが、この層の素材は質が高いとジンが言っていた。
「これ、武器か防具に使えるかな」とエリスが言った。
「地上に出たら職人に持ち込む。素材次第でいいものが作れる可能性がある」
「どんな武器が欲しい?」
「今は素手と黒炎で十分だ。ただ——黒炎短刃が安定してきたら、何かに乗せる素材が必要になるかもしれない」
「乗せる?」
「黒炎を纏わせやすい素材の武器があれば、短刃の出力を上げられる可能性がある。まだ先の話だが」
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二十一層を進む中で、別の魔物にも遭遇した。
四足歩行で、首が長い。体長六メートル。草食性に見えたが——いざ戦闘になると頭突きの力が凄まじかった。
「《長首竜》か」
「知ってる?」
「形状から推測した。草食恐竜に似た形だ。ただし縄張り意識が強い。近づきすぎると攻撃してくる」
「頭突きが速い……!」
ドラが横に転がって避けた。《長首竜》の頭が地面を抉った。
「首が長い分、振りが遅い。振った後の隙が大きい。そこを狙え」
「わかった——!」
ドラが振った直後の首に双剣を叩き込んだ。肉が厚い。でも傷は入った。
エリスが足場を崩した。《長首竜》がよろめいた。
リアが目を閉じた。
「首の付け根——血管が浮いてる部分に風が当たってる。そこを狙う」
ウィンドアロー。
首の付け根に深く刺さった。
《長首竜》の動きが一気に鈍くなった。
ドラがさらに切り込んだ。俺が黒炎弾を撃ち込んだ。
倒れた。
「首の血管を風で感知したのか」
「体温の違いで空気の動きが変わる。血流が速い場所は、周りと温度が違う。それが風でわかった」
俺はリアを見た。
ダンジョンに入った時の十一歳のリアと、今のリアは、別人と言っていいくらい変わっていた。
「それは本物の技術だ」
「……ありがとう」
「事実を言っている」
「それが嬉しいんだよ」とリアが言った。笑っていた。
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数日後、二十二層の中継点に着いた。
そこに——《霧刃》がいた。
セインとフィアだ。
「また会ったな」とセインが言った。穏やかな声は変わらない。
「生きていたか」とフィアが言った。
「生きている」
フィアがリアを見た。「腕、怪我したのか?」
「二十層で少し怪我した。でもよくなった。弓は引ける」
「見せろ」
リアが弓を構えた。素引きで弦を引いた。右手の引き方を確認させた。
フィアが頷いた。「手首の癖、直ってるな」
「ちゃんと意識した」
「筋がいい、と前回言った。それ以上だ。今は風の感知を使えているな」
「わかる?」
「弓を構えた時の目が違う。目を使っていない」
リアが少し驚いた顔をした。
「……そうかもしれない。最近、目を閉じなくても感じられるようになってきた」
フィアが少し間を置いた。
「一つ聞いていいか。風魔法を使って——雷が来たことはないか」
リアが首をかしげた。「雷?」
「風属性を極めた先に、雷属性が来ることがある。稀にだが。特に風感知が無意識レベルに達した時に、変化が出やすい。体がしびれるような感触や、指先に静電気が走るような感覚がないか」
リアが少し考えた。「……指先に、たまにびりってなることある。矢を射た後とか」
フィアが俺を見た。それからリアを見た。
「……その感触、大事にしろ。もし次に来たら、無視せずに意識的に引き出せるか試してみろ」
「それって——雷魔法が使えるようになるってこと?」
「可能性がある。風と雷は繋がっている。風の極致が雷になる。全員がなれるわけじゃないが——お前の風感知の水準なら、繋がっている可能性が高い」
リアが俺を見た。
俺は頷いた。
「試してみろ。フィアが言うなら根拠がある」
「……わかった。意識してみる」
フィアが「教えられることには限界がある。実際に来た時、自分で掴むしかない」と言った。
「それはどんなことも同じだ」
フィアがケンジを見た。少し間があった。
「……そうだな」と静かに言った。
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その夜、焚き火を囲んだ。
《霧刃》と並んで座った。
セインが「二十一層はどうだった」と聞いた。
「《鱗走竜》が火を吐いた。《長首竜》に頭突きをもらいそうになった」
「それは新鮮だったろう。俺たちも最初に来た時は驚いた。洞窟の魔物と全然違う」
「動きの予測が難しい。洞窟の魔物は通路の制限があるから動きが読みやすい。ここは動ける範囲が広すぎる」
「慣れるか、索敵を強化するかだ。お前たちは後者だな。リアの風感知がある」
「それが今一番頼りになっている」
セインが「フィアが珍しく教えていたな。雷の話」と言った。
「フィアはあまり教えないのか」
「教えるタイプじゃない。認めた相手にしか話さない。リアを認めてるってことだ」
「……そうか」
少し間があった。
「リアは弓だけじゃなく近接もやってるのか」とセインが聞いた。
「ドラに習っている。まだ荒削りだが」
「両刀遣いはリソースの分散になるリスクもある。でも——万能性があれば生き残りやすい」
「本人が望んでいる。だから続けさせている」
セインが「いいリーダーだ」と言った。
「お世辞はいらない」
「お世辞じゃない。パーティの全員が自分で考えて動ける状態になってる。それは簡単じゃない」
俺は少し黙った。
「……ありがとう」
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翌朝、エリスが俺のところに来た。
「ケンジ、少し試したいことがある」
「何だ」
「火と風の複合魔法。《火炎嵐》を二十層で使ったけど——あれはほぼ全力で全部出した。制御があまりできなかった」
「そうだな」
「もっと絞って、方向を決めて使えるようにしたい。全力じゃなくても、狙った方向だけに炎の嵐を作れれば——消耗が減るし、味方に当たる心配も減る」
「試す価値がある。ここで練習するか」
「うん。木に当てていい?」
「でかい木を選べ。枯れていそうなやつがいい」
エリスが少し離れた巨木の幹に向かって立った。
両手に魔力を集めた。
火属性と風属性を——同時に。
以前は火か風かどちらか一方だった。今は両方が手の中で渦を巻いていた。
「行く」
炎が風に乗った。
前回の《火炎嵐》より小さかった。半径三メートルほど。でも方向が定まっていた。木の幹に向かって集中した炎の渦が当たった。
幹が大きく焦げた。木が傾いた。
「……できた。制御できた」
「前回より小さかった。でも狙った方向に届いた。これが練習だ。精度を上げながら徐々に広げていけ」
「うん。もっと練習する」
エリスが何度も繰り返した。
三回目から、炎の渦の形が安定してきた。
五回目には、幹の狙った部分だけを焦がせるようになった。
「制御の精度が上がっている」
「風と火を同時に扱うの、最初は全然まとまらなかった。でも——片方ずつ制御してきた分、両方を別々に動かす感覚がある」
「それが複合魔法の基礎だ。二つを別々に動かしながら、同時に出す」
「難しいけど、楽しい」
エリスが笑った。
俺は、その笑顔を見た。
沼地帯でずっと湿気と毒と戦ってきた後で、明るい白い天井の下で笑っているエリスは——どこか、ランテ村にいた頃のエリスに似ていた。
似ていて、でも全然違った。
ずっと強くなっていた。
「エリス」
「なに?」
「入った頃よりずっと強くなった」
エリスが目を丸くした。それからゆっくりと、顔が赤くなった。
「……そんなこと言うの、珍しい」
「事実だから言った」
「わかってるよ。でも——嬉しい」
俺は前を向いた。
白い天井が、遠くまで続いていた。
地下なのに、空みたいだった。
二十五層まで、あと三層。
次のボスが待っている。




