第41話:腐敗の女王
二十層への階段を降りた瞬間、空気が腐った。
腐敗の匂いではない。もっと深い何かだ。空気そのものが変質しているような感触があった。
壁が黒く変色していた。石の表面に、ぬめりのある膜が張っている。触れる気にならない。
「この層、おかしい」
リアが顔をしかめた。
「腐敗の魔力が層全体に充満しているみたいだ。ボスが長い時間をかけてこの層を変質させた」
「それって、私たちにも影響がある?」
「じわじわと体力を削る可能性がある。長居しない方がいい」
「エリスの障壁は?」
エリスが右手に光の魔力を集めた。薄い膜を自分の周囲に展開した。
「……一応張ってる。でも腐敗の魔力が濃くて、少しずつ削られる感じがする。長く張り続けると消耗が大きい」
「全員分を常時張るのは無理か」
「ごめん……たぶん無理」
「わかった。ボスと直接対峙した時だけ張れ。それまでは温存しろ」
ドラが「早く終わらせた方がいい」と言った。
「ああ。急ぐ」
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二十層の奥は、今まで見た空間の中で最も歪んでいた。
壁も天井も床も、全て黒い膜で覆われていた。地面に黒い水溜まりが点在している。触れてはいけない気配がした。
そして——いた。
《腐敗の女王》。
人型だった。
身長は三メートルほど。外見は人間の女性に近い。でも全身が黒い粘液で覆われていた。頭から伸びる触手が六本。それぞれの先端が、ゆっくりと動いていた。
目が——なかった。
顔の部分に目がなかった。代わりに、顔全体が薄い膜で覆われていた。
「気持ち悪い……」
リアが小さく呟いた。
「集中しろ」
「わかってる。わかってるけど」
俺は《腐敗の女王》を見た。
動いていない。でも——存在しているだけで、周囲の空気が重くなっていく。腐敗の魔力が膨張していた。
「エリス、障壁を張れ。今すぐ」
「——張る!」
白い光が四人を包んだ。
その瞬間——《腐敗の女王》が動いた。
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触手が六本、一斉に伸びた。
速い。蛇のように、蠢くように、複数方向から同時に来た。
俺は右腕で一本を払った。黒炎を乗せて弾く。
触手が焼けた。でも切れなかった。
再生した。
「再生する!」と俺は叫んだ。
「どうすれば止まる」とドラが叫び返した。
「わからない。とにかく距離を——」
触手の一本が、ドラの左腕を掠めた。
「——ッ」
ドラが右にとびのいた。左腕の袖が溶けていた。皮膚が赤くなっていた。腐敗毒だ。
「ドラ、腕を見せろ」
「問題ない。深くない」
「後で確認する。今は動け」
リアが後方から矢を射た。
ウィンドアローが触手に刺さった。
触手が揺れた。でも再生した。
「矢も効かない……!」
「本体を狙え。触手は囮だ」
本体——《腐敗の女王》の胴体。
触手が邪魔で近づけない。
俺は黒炎弾を撃った。
《腐敗の女王》の胴体に向けて放った。
ズドッ——当たった。
黒い粘液が飛んだ。でも——再生した。
「黒炎弾も再生する」
俺は少し止まった。
再生が速い。攻撃を当て続ければいつか倒せるかもしれないが——この環境の中で長期戦は消耗する。エリスの障壁も持たない。
弱点がある。
腐敗属性の魔物に対して有効なのは——
「エリス、火属性を本体に叩き込め。できるだけ広範囲で、できるだけ強く」
「障壁と同時は——難しい」
「障壁を一瞬落とす。その間に撃つ。俺とドラが触手を全部押さえる。リアは本体から目を離すな」
「……わかった。やってみる」
「ドラ、触手を三本押さえられるか」
「やる」
「俺が残りを引きつける。エリスが撃つ瞬間だけ、三本全部を止めろ。一秒でいい」
「一秒、だな」
「ああ。エリス、準備はいいか」
「……いい。でも——ケンジ、触手を引きつけるって、大丈夫?」
「大丈夫じゃないかもしれない。でもやる」
「……わかった。絶対に当てる」
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俺は《腐敗の女王》に向かって走った。
触手が反応した。俺に向かってきた。
六本全部が俺に向いた。
ドラが三本に向かって飛び込んだ。双剣で触手を押さえる。完全に止めはしない。それでいい。動きを鈍らせるだけでいい。
残り三本が俺に向かってくる。
一本を右腕で払った。
一本を左腕でブロックした。
三本目が——俺の左脇腹を掠めた。
「——ッ」
服が溶けた。皮膚が焼けるような痛みが走った。腐敗毒だ。深くはない。でも確かに当たった。
でも。
三本が俺に集中した。
その一瞬、《腐敗の女王》の本体が——無防備になった。
「エリス——今だ!!」
「——行くッ!」
エリスが障壁を落とした。
両手に火属性の魔力が集まった。
今まで見たことのない量だった。
エリスの全身が、橙色の光に包まれた。
「《火炎嵐》——!!」
炎が広がった。
局所ではなかった。《腐敗の女王》を中心に、半径十メートルの範囲が一瞬で炎に包まれた。
熱波が来た。俺は顔を腕で守った。
《腐敗の女王》が——炎の中で動いた。
再生しようとしていた。でも炎が速かった。再生より焼ける速度が上回っていた。
触手が燃えた。
本体が燃えた。
黒い粘液が蒸発した。
《腐敗の女王》が——崩れた。
黒い塵になって、散った。
静寂。
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炎が収まった。
空気が——少し、綺麗になった気がした。
腐敗の重さが、薄れていた。
「倒した……」
エリスが膝をついた。
両腕が震えていた。魔力を大量に消費した体だった。
「エリス!」
リアが駆け寄った。
「平気……立てる。でも、ちょっと待って」
「無理して立つな」
俺はエリスの隣に膝をついた。
「今の魔法、初めて使ったか」
「……うん。あれだけ広く出したの、初めて。なんか——一気に全部出てきた感じ」
「広範囲で威力が出た。ただし後が残らない。魔力が一気に抜けた」
「空っぽになった感じ」
「今日はもう魔法は使えないと思っていい。俺とドラとリアで対応する」
「ごめんね」
「謝るな。今日の一撃が決め手だった」
エリスが顔を上げた。少し笑った。「……うん」
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全員の状態を確認した。
ドラの左腕——触手に掠められた部分が赤く腫れていた。腐敗毒の影響だ。薬草を巻いてもじわじわと腫れが広がっていく。
「痛みは」
「ある。でも動く」
「この腫れは薬草だけでは止まらないかもしれない。二十層を抜けたら中継点で休む。腐敗属性の毒は時間をかけて回復するしかない」
「わかった」
俺の左脇腹——触手に掠められた場所も、似たような腫れが出始めていた。
「ケンジも怪我してる」
リアが俺の腹を見て言った。
「浅い」
「でも腫れてきてる」
「時間で治る」
「ちゃんと見せてよ」
俺は少し黙ってから、服をめくった。
赤く腫れていた。一部、皮膚の色が変わっていた。
「……ケンジが怪我する場面、久しぶりに見た気がする」
「今まで当たらなかっただけだ」
「心配した」
「心配しなくていい。動ける」
「心配するかどうかは私が決める」
俺は何も言わなかった。
リアが薬草を取り出して、俺の脇腹に当てた。
ドラの腕に当てた時と同じ、丁寧な手つきだった。
「ありがとう」
「これくらいはする」
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二十層の中継点で二日ほど休んだ。
ドラの腕の腫れが、ゆっくりと引いていった。俺の脇腹も同じだった。腐敗毒は体が徐々に分解していく。時間がかかった。
休んでいる間、俺は右手をじっと見ていた。
黒炎弾を撃つ時の指の形——親指を立て、人差し指を伸ばす形。
それとは別の形を試していた。
グーにした。
そこから人差し指と中指だけを立てた。
二本の指。
黒炎を集めた。
弾丸ではなく——刃の形に。
指先から、数センチの黒炎が伸びた。
揺れた。形が崩れた。消えた。
もう一度。
指先から黒炎を出した。刃の形を意識した。
数センチの刃が——今度は少し安定した。
五秒ほど保った。
消えた。
「……なんかやってる」
リアが俺の手を見ていた。
「試している」
「何を」
「刃を作れるか」
「刃?黒炎弾じゃなくて?」
「黒炎弾は飛ばす。これは手元で使う。近距離での切断用だ」
リアが俺の手を覗き込んだ。
「もう一回やって」
俺は人差し指と中指を立てた。黒炎を集めた。刃の形に凝縮させた。
七センチほどの小さい黒炎の刃が、指先から伸びた。
「……かっこいい」
「機能の話だ」
「かっこいいのと機能するのは両立するでしょ」
ドラが「ナイフみたいだな」と言った。
「そうだな。ただまだ安定しない。十秒持たせるのが精一杯だ」
「鍛えれば長くなるか」
「なるはずだ。黒炎弾の制御と同じだ。密度と形状の維持の問題だ」
エリスが「名前はあるの?」と言った。
「まだない」
「……《黒炎短刃》とかどう?」
「そのままだな」
「わかりやすくていいと思うけど」
「……そうかもしれない」
エリスが少し嬉しそうに「じゃあ《黒炎短刃》ね」と言った。
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休養が終わった日、ジンが中継点に現れた。
「生きてたか。二十層のボス、倒したのか」
「倒した」
「早いな。腐敗の女王は手こずる奴が多い。怪我は」
「全員している」
「そうか。まあ、あの層で無傷は無理だ」
ジンが俺の脇腹を見た。服越しでも腫れがわかったらしい。
「情報がある。売るか」
「何の情報だ」
「レオンとカインが外にいる。ダンジョンの入口で待ち構えているらしい。俺の外のネットワークから入ってきた情報だ」
俺は少し考えた。
「いくらだ」
「銀貨十五枚。今回は転移魔法の情報も込みだ」
「転移魔法の詳細を知っているのか」
「カインが使う転移魔法、目的地に指定できる距離に上限がある。たぶん一キロ程度だ。それ以上離れた場所には飛べない」
「つまり——ダンジョンの深層からは外に飛べない」
「少なくとも今の深さからは、そうだと思われる」
俺は収納袋から銀貨を出した。
「払う」
「毎度」
ジンが銀貨を受け取った。「二十一層から先は地下山林だ。環境が大きく変わる。気をつけろ」
「知っている」
「そうか。……一つだけ無料で言う」
ジンが少し声を落とした。
「最近、ヴォルテクスの動きが変わった。何かを急いでいる。外のネットワークでも情報が乱れている。でかい何かが動き始めてる気がする」
俺は黙って聞いた。
「以上だ。先に行く」
ジンが通路に消えた。
ドラが「外の状況が変わってきた」と言った。
「ああ。ダンジョンの中にいる間に、外が動き始めている」
「急いで上がるか」
「急がない。今の俺たちが外に出ても、まだ足りない。ただ——意識しておく必要がある」
リアが「私たちが出た時、外はどうなってるんだろう」と言った。
「わからない。でも——出た時に対応できる力をつけてから出る」
「うん。……頑張ろう」
俺は二十一層への階段を見た。
地下山林。
環境がまた変わる。
ケンジたちがダンジョンに入って、八ヶ月が過ぎていた。全員が十二歳になっていた。
沼地帯が終わる。
次は——山林地帯だ。




