第39話:中継点の影
十六層から、沼地帯の色が変わった。
水が黒くなっていた。
十一層から十五層までは茶色みがかった濁り水だったが、十六層の水は底が見えないほど黒い。腐敗の匂いが濃い。水面に泡が浮いていた。腐敗ガスだ。
「近づくな。水に触れるな」と俺は言った。
「飲んだらどうなる?」とリアが言った。
「試さなくていい」
「試す気はないけど……なんか怖い」
「怖くていい。正しい感覚だ」
ドラが鼻を押さえるような仕草をした。「匂いがきつい。腐敗臭が嗅覚を狂わせる。十五層より感知精度が落ちる」
「リア、風の感知に頼る場面が増える。頼んでいいか」
リアが目を閉じた。少しの間、息を整えた。
「……空気の流れは読める。水の匂いが強くても、動くものが作る風は感じられる」
「それで十分だ」
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十六層の中継点には、先客がいた。
今まで通った中継点はほぼ《灰燼》だけが使っていた。それが当たり前になっていたが、ここは違った。
壁際に一人。焚き火も起こさず、荷物を背にして座っていた。
狐の耳と尻尾。獣人族の男だ。三十代半ばくらい。顔に細い傷跡が一本走っている。目が細い。俺たちが入ってきても、ほとんど動じなかった。
ただ、こちらを見た。
「子供が四人か。珍しいな」
低い声だった。警戒はしていない。ただ観察している目だった。
「Cランクだ」と俺は言った。
「知ってる。《灰燼》だろ」
俺は少し止まった。
「……知っているのか」
「ダンジョン内で噂になってる。子供四人のパーティが十五層のボスを倒したって。俺は情報を売る商売をしてるんでね、耳に入ってくる」
男が立ち上がった。背が高い。俺より頭一つ以上でかい。
「ジンだ。ソロで潜ってる。Bランク」
「ケンジだ」
「知ってる」
ジンが口の端を少し上げた。嘲笑ではない。面白がっている目だった。
「外で《灰燼》の名前を聞いた時は冗談かと思ったがな。実際に見ると——なるほど、本物の目をしてる」
「情報を売ると言ったな」
「ああ。買うか?」
「何を持っている」
「色々ある。ただ——お前らに一番興味ありそうなのは、ヴォルテクスの話だ」
俺はジンを見た。
ドラが俺の横で、ぴくりと耳を動かした。
「……続けろ」
「数日前、十四層の中継点で奇妙な二人組を見た。冒険者の格好をしていたが、匂いが違った。戦いの匂いじゃない。狩りの匂いだ。獲物を探している奴らの匂い」
「特徴は」
「一人は三十代の人間の男。剣使い。目に感情がない。もう一人は二十代の若い男。魔法使いらしい。軽口が多かった。二人とも——革鎧の内側に、翼と爪の紋章を隠していた」
ヴォルテクスだ。
「確認したのか」
「確認できる距離にいた。俺は情報屋だ。見ることが仕事でね」
「今どこにいる」
「十四層か十五層をうろついてると思う。お前らが使う中継点を調べているような動きだった。ただし数日前の話だ。今はわからない」
俺は少し考えた。
「情報料はいくらだ」
「銀貨十枚。ダンジョン内の情報は高い。地上の相場より上乗せさせてもらう」
「払う」
収納袋から銀貨を出した。
ジンが受け取って枚数を確認した。「正直な奴だ。少なくして来るかと思ったが」
「必要な情報には正当な対価を払う」
「気に入った」
ジンが再び壁際に座った。「もう一つサービスで言っておく。あの二人、お前らのことを知っていた。子供四人、黒炎使い——そう言っていた。ターゲットはお前らだ」
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中継点の奥に陣を取った。ジンから離れた場所で、四人を囲んだ。
「来ると思っていた」と俺は言った。
「カルタで逃がした連中が報告したのか」とドラが言った。
「そうだろうな。ダンジョンに入ったことも把握されている。あの二人組は偵察兼先行部隊だろう。本命は別にいる可能性がある」
「どうする」
「待ちたくはない。先手を取る。向こうがこちらを探しているなら、俺たちから動いた方が場所を選べる」
「十四層か十五層に戻るのか」
「戻る。中継点ではなく通路の中で仕掛ける。狭い場所なら魔法の範囲が制限される」
「リアは遠距離が使いにくくなるけど……」とリアが言った。
「近距離の練習がある。短刀も使える。通路の幅によっては壁を使った動きができる」
「わかった。やってみる」
「エリス、相手には魔法使いがいる。光の障壁をすぐに張れるか」
「……二秒あれば張れる」
「わかった」
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十五層に戻った。
呪印を広げた。
五十メートル。
いる。二つの気配が通路の途中で止まっていた。
「右の分岐路の先だ。三十メートル」と俺は小声で言った。
「匂いがする」とドラが小声で言った。「……人間二人。戦いの前の匂いだ。こちらに気づいてる」
「向こうも感知している。先手を打つ。行くぞ」
俺が先頭に出た。分岐路の角を曲がった。
いた。
二人。
一人は三十代の人間の男だった。短く刈り込んだ黒髪。無駄のない体型。腰に長剣。目に——感情がない。
もう一人は二十代前半の若い男だった。茶色い短髪。細身。右手に魔法石の杖。唇が薄く笑っていた。
「早いな。そっちから来るとは思わなかった」
若い方——カインが言った。
「探すより来させた方が早い」
「賢いじゃないか。子供なのに」
「子供だと思っているなら、それは間違いだ」
レオンが剣を抜いた。音がなかった。静かに、自然に、剣が手の中にあった。
「ヴォルテクスの構成員だな」と俺は言った。
レオンは何も言わなかった。
「エリスを狙いに来たのか」
「さあな」とカインが笑った。「俺たちはただの冒険者だぞ?」
「翼と爪の紋章を内側に隠している冒険者が、子供を探してダンジョンに潜る理由はない」
カインの笑みが少し変わった。「……なるほど。情報屋と話したのか。あの狐野郎かな」
「関係ない。お前たちの目的を聞いている」
カインが杖を構えた。「——話す気はないな」
赤い魔力が杖に集まった。
「エリス!」
「張る——!」
白い光が四人を包んだ。
カインの火球が障壁に当たって弾けた。
その瞬間——レオンが動いた。速い。
俺はレオンの剣を右腕で受けた。黒炎を右腕に集めていた。
ガンッ——剣が黒炎に触れた瞬間、鍔元から刃が弾かれた。
レオンの目が、初めて動いた。驚いていた。
「黒炎が剣を弾く、知らなかったか」
「……なるほど」
レオンが後退して剣を構え直した。
ドラが右から回り込んでいた。レオンの死角に入った。
レオンが気づいて振り返った。
その隙に——俺は右手の形を作った。親指を立て、人差し指を前に伸ばした。
《黒炎弾》。レオンの肩に向けて放った。
ズドッ——。
右肩に当たった。革鎧が焼けた。レオンが後退した。右腕の力が抜けた。剣が床に落ちた。
「——ッ」
レオンが剣を左手で拾った。利き手じゃない方で構え直した。
その時——カインが後退していた。
「レオン、退くぞ」
レオンがこちらを見た。感情のない目だったが——何かを読んでいた。
「お前たちは、ここで死なせるには惜しい相手だ」
レオンが初めて口を開いた。低い声だった。
「また会う」
カインが壁に手をついた。魔法陣が光った。
転移だ。二人の姿が、消えた。
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静寂。
「……逃げた」とドラが言った。
「転移魔法か。想定外だ」
「追えないな」
「追わない。ただ——」
俺は二人がいた場所を見た。
「レオンという男、強い。黒炎弾を食らって剣を落とした後、即座に左手で拾い直した。ヴォルテクスの中でも上位の実力者だ」
「私は爆破矢を使えなかった」とリアが言った。「タイミングが掴めなくて」
「あの状況で使えば俺かドラに当たっていた可能性があった。判断は正しい」
「……でも、悔しい」
「悔しいのはいいことだ。次に活かせ」
エリスが「あの二人、また来ると思う?」と言った。
「来る。ただしダンジョン内では転移魔法があれば追えない。地上に出た時に待ち構える可能性の方が高い」
「地上に出た時が危ない?」
「そうだ。ただしすぐには出ない。まだ深く潜る」
「準備って何を」とリアが言った。
「強くなること。それだけだ」
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十六層の中継点に戻った時、ジンがまだいた。
「生きて帰ってきたか」
「撃退した。逃がしたが」
「そうか。あの二人、転移魔法を持っていたろ?」
「知っていたなら先に言え」
「銀貨十枚の中に含めていたつもりだったが——言い忘れたな。次は追加で取る」
俺はジンを見た。情報の質は確かだった。
「一つ聞く。ヴォルテクスの規模を、どのくらい把握している」
ジンが少し間を置いた。
「……王都で活動している部隊だけで五十人以上。地方も合わせれば数百。最近、王都周辺の動きが活発になっている。何かを待っているような動きだ」
「何を待っている」
「わからない。でも——でかい何かだ。俺の勘だがな」
俺は黙った。
「情報料はいくらだ」
「今の話は無料にしておく。お前らが面白そうだから」
「……理由になっていない」
「情報屋は人に投資することもある。将来、もっと高く売れる情報を持ってきてくれそうな奴にはな。《灰燼》が深く潜るほど、俺の情報の価値も上がる。そういうことだ」
信用はしない。でも利害は一致している。
「わかった。また情報があれば話す」
「そうしてくれ」
ジンが荷物を背負った。「俺は先に進む。邪魔したな」
通路の先に消えていった。
ドラが「……信用できるか」と言った。
「今は利害が一致しているだけだ。信用とは別だ」
「同意する」
リアが「なんかすごい人と知り合いになったね」と言った。
「便利な情報源だ。使えるうちは使う」
「ケンジって打算的だよね」
「悪いか」
「……悪くないけど。たまにびっくりする」
エリスが「でもジンさん、悪い人じゃない気がした」と言った。
「今のところはな」
「ケンジが認めるなら、たぶん大丈夫だよ」
俺は何も言わなかった。
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夜営しながら、俺は自分の手を見た。
少し大きくなっていた。
ダンジョンに入る前——十一歳の時の手と、今の手は違う。筋がついていた。指の皮が厚くなっていた。黒炎弾の練習で焼けた跡が、薄い痕になって残っていた。
リアを見た。
背が少し伸びていた。顔つきが変わっていた。子供っぽさが削られて、綺麗めになっていた。それでも笑う時は笑う。それは変わっていない。
エリスを見た。
角を隠す帽子が、少し小さくなっていた。体が成長していた。魔法を使う時の目が、入った頃より深くなっていた。
ドラは——もともと十九歳だ。でもダンジョンに入ってから、また別の強さが加わっていた。
俺たちは確かに、成長していた。
呪印が、静かに脈を打っていた。
ヴォルテクスが追ってきた。レオンという男が、また来る。
でも——今の俺たちは、もう逃げるだけじゃない。
まだ先がある。
深く。
もっと深く。




