第36話:沼地帯の霧
最初の一歩で、足が泥に沈んだ。
くるぶしまで埋まった。引き抜くと、ぐちゅっという音がした。
「歩きにくい」
リアが顔をしかめた。
「重心を前に置くな。体重を分散させて歩け。一歩ずつ足場を確かめてから踏み込む」
「洞窟の時と全然違う……」
「慣れるまで時間がかかる。ただし慌てるな。泥に深く嵌まると抜けなくなる」
ドラが地面を見ながら「匂いが複雑すぎる。どこに何がいるか分離できない」と低く言った。「腐敗臭が強い。生き物の匂いがかき消される」
「リア、頼む」
リアが目を閉じた。
ゆっくりと息を吸った。
風を読む——。
沼地の空気は洞窟と違った。流れが複雑だった。泥から上がる腐敗ガスが空気を歪めていた。霧が視界を塞いでいた。
でも——動きはある。
空気が動くところに、何かがいる。
「……右側、三十メートルくらい。水面が揺れてる感じ。大きいものが水の中にいる」
「水中か」
「左前方にも何かいる。地面を這ってる。複数——四、五匹かな。小さい」
俺は呪印を広げた。
確かに反応がある。ただし輪郭が滲んでいる。リアが言う位置と大体一致していた。
「右の水中は接近するまで放置。左前方を先に処理する」
「水中の奴が来たら?」
「ドラが先に気づく。それまでは気にするな」
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左前方の藪を慎重に進んだ。
地面が不安定だった。一歩踏み込むたびに足元が沈む深さが変わる。固い場所と、膝まで埋まる場所が不規則に混在していた。
エリスが「足場、少し固めていい?」と言った。
「どうやる?」
「土魔法で泥の中に岩盤を引き上げる。足元だけ固くする」
「試せるか」
「やってみる」
エリスが右手を地面に向けた。紫の魔力が泥の中に沈んでいく。
数秒後、エリスが立っている場所の地面が少し持ち上がった。泥の下から岩が顔を出した。固い足場ができた。
「できた。でも範囲が狭い。一人ずつしか固められない」
「先頭を固めながら進む。俺が先頭に立つ。エリスが俺の足元を固めながらついてこい」
「わかった」
ゆっくりと進んだ。
前方から気配が近づいてくる。
霧の中から——現れた。
《沼ガエル》だった。
体長六十センチ。前足が太い。体表が粘液で光っている。舌が長い。しかし——問題は単体ではなかった。
五匹。横一列に並んでこちらを向いていた。
「舌に気をつけろ」とドラが言った。「粘液がついたら身動きが取れなくなる」
「距離を詰めるな。リアとエリスで処理する。俺とドラは周囲を警戒しながら盾になる」
「わかった」
リアが弓を引いた。
一匹目——ヒュッ。
矢が飛んだ瞬間、《沼ガエル》が横に跳んだ。
外れた。
「速い……!」
「跳び方が読めない。ランダムに動く」
二射目。また外れた。
《沼ガエル》たちが一斉に舌を伸ばしてきた。
俺は左の一匹の舌を黒炎で焼いた。ドラが右の一匹の舌を剣で切り落とした。
残り三匹。
リアが目を閉じた。
一秒。
弦を引いた。
放った矢が——《沼ガエル》が跳ぶ直前に、空中で軌道を曲げた。
横に跳んだ先に、矢が待っていた。
刺さった。
「……風で曲げた」
リアが呟いた。
「もう一度できるか」
「……たぶん」
二射目。また矢が空中で緩やかに弧を描いた。
《沼ガエル》の跳躍先を読んで、そこに軌道を変えた矢が届いた。
二匹目が倒れた。
「エリス、残り三匹。爆破矢を試す」
「やってみる!」
リアが矢をつがえた。エリスが矢の先端に魔力を染み込ませた。
放つ。
矢が《沼ガエル》の腹に当たった瞬間——ドンッ。
炸裂した。
泥が飛び散った。《沼ガエル》が吹き飛んだ。
「もう一匹——!」
連続で放った。
ドンッ。
四匹目が倒れた。
「五匹目」
俺が言う前に——ドラが動いていた。
最後の一匹に向かって踏み込んで、双剣で首を落とした。
「全部か」
「全部」
リアが息を吐いた。「爆破矢……実戦で使うと全然違う。迫力がある」
「泥が飛んだのは想定外だったけど」エリスが泥だらけの顔で言った。「……もう少し遠くから使った方がよかったかな」
「距離の調整は次の課題だ。でも今日の連携は十分使えた」
エリスが泥を拭いながら「うん。もっと練習する」と言った。
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右側の水中の気配が——近づいていた。
「来る」とドラが言った。「水面から出てくる。でかい」
「どのくらいでかい」
「……《古代洞窟熊》より重い匂いがする」
俺は少し考えた。
十一層はまだボス層ではない。通常の魔物でこの重さか。
「全員、固い地面に下がれ。水際から離れる。水中戦はするな」
四人で後退した。
水面が盛り上がった。
出てきた。
《沼竜》——全長六メートル。ワニに似た体型だが、全身が緑黒い鱗で覆われていた。四肢が太い。尾が長い。水面から出た途端に、周囲の泥を吹き飛ばすほどの振動が走った。
「でかい……っ」
リアが一歩後退した。
「逃げるか」とドラが低く言った。
俺は《沼竜》を見た。
強い。正面から戦えない相手ではないが——今の俺たちのコンディションでは消耗が大きい。泥で動きが悪い。エリスはすでに魔力を使っている。
「今日は退く。無理に倒す相手じゃない」
「判断は早い方がいい」
「今すぐだ。ドラ、後退路を確保しろ」
「わかった」
《沼竜》が俺たちに向かって踏み込んできた。一歩の振動で、地面が揺れた。
俺は呪印を一段解放した。黒炎を前に向けて放った。
地面に当てた。
泥が勢いよく吹き飛んだ。
《沼竜》の顔面に泥が直撃した。
視界を奪った。
「今のうちに走れ」
四人で後退した。
《沼竜》が泥を払いながら吼えた。声が沼地帯全体に響いた。
でも——追ってこなかった。
縄張りがあるらしい。水際から一定以上離れたところで、《沼竜》は止まった。
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安全な距離まで退いてから、全員で息を整えた。
「あれと戦うのはいつになるかな」とリアが言った。
「今より強くなってから、だ。十一層の主じゃないかもしれない。通常の大型種の可能性がある」
「通常であの大きさ……」
「深い層はそういうものだ。慣れろ」
「慣れろって言葉、最近よく聞く」
「事実だから言う」
リアが「でも今日は逃げるって判断したね」と言った。
「戦えない時は退く。それも判断の一つだ。死んでも倒しに行く必要はない」
「……ちょっと意外だった。ケンジって無茶するイメージがあるから」
「必要な時だけ無茶する。必要じゃない時は無茶しない」
「どうやって見分けるの」
「勝った時に何が残るかを考える。消耗しきって勝っても、次に動けなければ意味がない」
リアが少し黙った。「……前世のサラリーマン時代の話っぽい」
「どこが」
「なんか仕事の話みたい。コスパとか、そういう」
「否定できない」
エリスが「ケンジって、三つ分の人生が混ざってるんだね」と言った。
「そうかもしれない」
「どれが一番強く出てる?」
俺は少し考えた。
「……全部だ。切り分けられない」
エリスが「それが今のケンジなんだね」と静かに言った。
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その日の夜営は、固い岩盤が露出している場所を選んだ。
泥の上で眠るのは体に悪い。ドラが嗅覚で岩盤が近い場所を探して、エリスが土魔法で岩を持ち上げて平らな場所を作った。
「エリス、足場作りが上手くなったな」と俺は言った。
「土魔法、練習してたから。魔力の通し方がわかってきた」
「沼地での土魔法は重要になる。お前が足場を作れれば、全員の動きが安定する」
「うん。もっと広い範囲でできるようにしたい」
「焦らなくていい。精度を上げてから広げろ」
「わかった」
リアがドラの隣に座った。「ドラ、今日の近接、見てた?」
「見てた」
「《沼ガエル》の時、ドラが一番速かった。私が風で軌道を変えた矢より速かった」
「泥でも動じなかっただけだ。足の踏み込み方を変えた」
「泥の中でどう踏み込むの」
「爪牙流の基本だ。足の指で地面を掴む。泥でも岩でも、掴む感覚は変わらない」
「教えてほしい」
「ここで?」
「今じゃなくていい。でも泥の上での動き方、ちゃんと教えてほしい」
ドラが「わかった。明日の朝に少しやろう」と言った。
リアが「ありがとう」と言った。
俺は焚き火を見ながら、今日の戦闘を振り返っていた。
爆破矢は使えた。ただしエリスの魔力消耗が思ったより大きかった。一戦闘に何本も使えるものではない。ここぞという場面に絞る必要がある。
リアの軌道変化は精度が上がっている。意識的にできるようになれば、射角の制限がなくなる。これは大きい。
「ケンジ」
エリスが隣に来た。
「何だ」
「今日、黒炎を放射してた。前より制御出来てるんじゃない?」
「ああ」
「遠くに飛ばせるようになると、戦い方が変わるね」
「そうだな。ただし制御が難しい。咄嗟にやった時は量が多すぎた。もっと絞れれば使いやすくなる」
「練習するの?」
「できる場面で試す。ここなら泥が飛ぶだけだ。周囲に影響が少ない」
エリスが「私も新しいことを試したい」と言った。「今日、岩盤を引き上げる練習をしてて——水の中の岩も動かせるか気になってる。水中の敵の足場を崩せるかもしれない」
「《沼竜》に使えるかもしれないな」
「うん。あれを倒す時、絶対役に立つと思って」
「試してみる価値がある」
エリスが「一緒に考えてくれる?新しい使い方」と言った。
「ああ」
火が揺れた。
沼地帯の夜は湿気が重い。霧が地面に低く漂っていた。
でも——焚き火の光の中は、乾いていた。
今日だけで、三つ新しいことができた。
黒炎の射出。爆破矢の実戦。リアの軌道変化。
十一層はまだ始まったばかりだ。
でも——確かに前に進んでいた。




