第34話:四人だけの六層
六層の空気は、五層より重かった。
壁の色が変わっていた。灰色だった石が、黒みがかった岩盤になっている。天井が低い。通路が狭い。二人並んで歩けるかどうか、というくらいの幅だ。
光の石が少ない。五層までは壁に等間隔で埋まっていたが、六層では間隔が広くなっていた。光と光の間に、完全な暗闇がある。
「暗い」
リアが言った。
「慣れろ。深くなるほど暗くなる」
「目が慣れるまで時間がかかる」
「ドラが先行して気配を拾う。俺が後ろから感知を補う。目が慣れるまでの間、二重で索敵する」
「わかった」とドラが言った。鼻をわずかに動かしながら、ゆっくりと前に出た。
エリスが右手の平に小さな光を灯した。親指の爪ほどの光の玉だ。消えないように、でも広がりすぎないように——出力を絞った光属性の魔法だった。
「これでいい?」
「助かる。ただし魔力の消耗に気をつけろ」
「このくらいなら長く持てる。ずっと練習してたから」
光の玉が、足元だけを柔らかく照らした。
エリスの制御の精度が上がっていた。一ヶ月前なら、こんな細かい出力の調整はできなかった。
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六層に入って最初の戦闘は、三十分後に来た。
ドラが立ち止まった。「……来る。前方と——右の壁の向こう」
「壁の向こう?」
「薄い。岩一枚分の厚さだ。向こう側に通路がある。そこから回り込もうとしてる」
俺は呪印を広げた。
確かにいる。前方と——右斜め前。二方向からの気配だ。
「挟み撃ちにしようとしている。種類は」
「……《影蝙蝠》だ。小さい。でも群れている。前方に十匹以上、右にも同じくらい」
ガロから聞いた情報を引き出した。六層からは《影蝙蝠》が増えると言っていた。音波で仲間を呼ぶ。一匹倒すたびに群れが膨らむ。音を立てずに仕留めるのが重要だ。
「音を出すな。一匹仕留めるたびに鳴き声が上がると仲間を呼ぶ。エリス、壁を薄く振動させて右側の群れを封じられるか」
「壁の向こうに……振動させる?」
「岩に魔力を通せるか。崩すんじゃない。振動を与えて、向こう側の気配を乱す」
エリスが少し考えた。「……やってみる」
エリスが右の壁に手をあてた。目を閉じた。紫の魔力が指先から岩に染み込んでいく。音もなく、光もなく——ただ魔力だけが、岩の内部に広がっていった。
しばらくして、右側の気配がざわついた。
「……乱れた。向こうが混乱してる」
「ドラ、前方を頼む。俺は前に出る。リアは後方を守れ。エリスはそのまま右の封じを続けろ」
「わかった」「わかった」「……うん」
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前方の通路が開けた瞬間、《影蝙蝠》が一斉に飛び立った。
黒い。小さい。翼を広げても三十センチほどだが、数が多い。十五匹以上が一気に向かってくる。
問題は——音を出させないことだ。
俺は呪印を解放した。黒炎を右の人差し指だけに集めた。細く。鋭く。
先頭の一匹の首に触れた。
声もなく、落ちた。
焦げる匂いを出してはまずい。黒炎の出力を最小限に絞る。熱だけを使う。
難しい。
でも——できる。
二匹目。三匹目。
ドラが横に走りながら双剣の平で叩き落としていった。刃を使わない。音を殺した動きだった。静かで、速い。
さすがだ。
十匹を過ぎたところで、一匹が通路の天井に張り付いた。
高い位置だ。俺もドラも届かない。
「リア——」
「見えてる」
リアが弓を引いた。
ウィンドアローは使わない。音が出る。素の矢だった。
風魔法なしで、暗い天井の《影蝙蝠》を狙っていた。
ヒュッ——という音はした。でも小さかった。
落ちた。
「……声が出る前に仕留めた」
リアが小さく言った。
「精度が上がってる」
「暗い中で狙ったの、初めてだったけど」
「次もできる」
「うん」
右の壁の向こうの気配が——静かになっていた。
「エリス、右はどうだ」
エリスが壁から手を離した。「……落ち着いてる。振動を続けたら、向こうが奥に下がった」
「うまくいった。魔力は」
「半分くらい使った。でも——」
エリスが自分の手を見た。
「岩に魔力を通す感覚、わかった気がする。土属性の魔法と、少し違う感じ。岩は硬いから、魔力を染み込ませるのに時間がかかる。でも染み込んだら、すごく広がる」
「次に活かせるか」
「もっと精度を上げれば——壁の向こうを感知するのにも使えると思う。どこに敵がいるか、岩越しにわかるようになるかもしれない」
俺は少し考えた。
「それは使える。続けて練習しろ」
「うん」
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六層の中継点に着いたのは、それから二時間後だった。
中継点に入った瞬間、四人全員が同時に息を吐いた。
気が張り続けていたのがわかった。
《鋼牙》と一緒にいた時とは、緊張感が違う。あの時はガロやゴッツが横にいた。経験者がいた。判断を借りられる部分があった。
今は——全部、俺たちだけだ。
「……疲れた」
リアが壁にもたれた。
「精神的な疲れだ。体は動いてる」
「それが一番疲れる」
「慣れる」
「ドラもそう言う」
ドラが「事実だから」と言った。
リアが「今日の戦闘どうだった?」と俺に聞いた。
「悪くなかった。ただし——お前の矢、素の矢でも暗所で当たるならウィンドアローの強化に時間を使った方がいい。今の弓の精度は近接との連携に十分使える水準だ」
「近接との連携って、どういうこと?」
「接近した敵をドラが押さえた瞬間に死角から射つ。今日の《影蝙蝠》みたいに天井に張り付いた敵を仕留める。弓だから届く位置がある。それを活かせ」
「……わかった。ドラ、今度練習に付き合って」
「ああ」とドラが言った。「リアの射角と俺の動きを合わせる。やってみる価値はある」
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夜、焚き火を起こして食料を温めた。
持ち込んだ干し肉と、六層で倒した《影蝙蝠》を焼いた。《影蝙蝠》の肉は少ないが、食える。
「これも食べられるんだね」
エリスが小さく言った。
「食えるものは食う。長期潜行では選り好みしない方がいい」
「わかってる。ただ——少し複雑な気持ち……」
「何が複雑だ」
「倒した相手を食べるって、なんか……」
「自然界では普通のことだ。無駄にしない方がいい」
「……そうだね」
エリスが一口食べた。少し目を閉じた。
「……普通においしい」
「そうだろう」
「複雑な気持ちはそのままだけど、おいしいのは本当」
リアが「私もそう思う」と笑った。
ドラが「喰われた側に敬意を払うなら、全部食え」と言った。
エリスが「……そういう考え方、いいね」と静かに言った。
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消灯前、俺は地図を広げた。
六層まで来た。《鋼牙》のマッピングは六層の入口まであった。それ以深は自分たちで記録していく。
俺は六層の通路を書き込んでいった。分岐の位置、中継点の場所、《影蝙蝠》の群れがいた区域。
ドラが隣に来た。「七層はどのくらい先だと思う」
「このダンジョンの構造から推測すると、中継点からさらに一日は歩くはずだ」
「七層から環境が変わるか」
「まだ洞窟地帯が続く。変わるのは十一層からだ。そこで沼地帯になる」
「沼か」
「足場が悪い。ドラの嗅覚でも追いにくくなる可能性がある。沼の匂いが強すぎて、魔物の匂いを掻き消すかもしれない」
ドラが少し黙った。「……対策を考えておく」
「頼む。俺の呪印の感知精度も上げる。お前が嗅げない分を補えるように」
「ケンジの感知は今どのくらいだ」
「通常五十メートル。調子が良ければ百メートル。ただし精度が粗い。人間と魔物の区別はできるが、種類まではわからない。もっと細かくしたい」
「やってみる価値はある」
「ああ」
リアがすでに眠っていた。エリスも目を閉じていた。
ドラが焚き火の火を調整した。
「ケンジ」
「何だ」
「六層に入って、お前の動きが少し変わった」
「どう変わった」
「……余裕が出てきた。今日は呪印の出力を絞る動きをしていた。以前はそんな細かい制御をしていなかった」
俺は少し考えた。
「やらなければならない状況だったから、やった。それだけだ」
「それだけで急にできるのか」
「できると思っていなかったが——やってみたらできた」
ドラが「俺も今日、双剣の平で叩き落とした。刃を使わずに」と言った。「以前は音を殺すより、速く倒すことを優先していた。でも今日は自然にそうしていた」
「体に入ってきた」
「ああ。三ヶ月前とは別の動きが出てきてる」
俺は地図から目を上げた。
「それが成長だ」
「ケンジに言われると、なんか照れくさいな」
「言わなかった方がよかったか」
「いや」
ドラが火を見た。
「——嬉しい」
それだけだった。
俺も火を見た。
六層。まだ先は長い。
でも——確かに、一層目より強くなっていた。
四人全員が。
それだけで、今夜は十分だった。




