第32話:五層の竜
三層も苦戦せず、四層まで順調に進んだ。
四層に入った瞬間、空気が変わった。
湿気が増した。壁の石に苔が生えている。水が滴る音が遠くから聞こえる。天井が低い。三層より明らかに圧迫感がある。
足元が滑りやすくなっていた。
「気をつけろ。足場が変わった」
「わかってる」とリアが言った。
でも一歩踏み出した直後、リアの足が滑った。
俺は反射的に腕を伸ばした。リアの腕を掴んだ。
「……ありがとう」
「滑り止めが必要だ。次の中継点で靴底に何かを巻け」
「何を巻けばいいの」
「荷物の中に麻縄がある。粗いほど摩擦が生まれる」
ドラが先を見ながら「匂いが変わった。石の魔物じゃない。何か別のものがいる」と言った。
「形は」
「でかい。重い。——這うような動きだ」
「数は」
「一匹。でも——大きい。かなり大きい」
ガロが「四層の主は《鎧蠍》だ」と言った。「全長三メートル。全身が甲殻で覆われている。尻尾の毒針が厄介だ。刺さると三十秒で意識を失う」
「弱点は」
「甲殻の継ぎ目。特に尻尾の付け根と、腹の中心だ。でも腹を晒さない。攻撃してくる時だけ一瞬腹が見える」
「一瞬、どのくらいだ」
「コンマ二秒くらいだな。見切れるかどうかが分かれ目だ」
俺はドラを見た。
「俺が尻尾を封じる。ドラが継ぎ目を狙う。エリスは足場を操作して動きを制限しろ。リアは継ぎ目が開いた瞬間を狙え」
「腹が一瞬しか見えないのに、矢で狙えるかな」とリアが言った。
「お前の今の精度なら届く。ただし一射で決めろ。外したらもう一度腹を晒すまで待つしかない。その間に誰かが毒針をもらう可能性がある」
「……わかった。やってみる」
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前方の通路が開けた。
広い空間があった。
そこにいた。
《鎧蠍》——全長三メートル。全身が黒光りする甲殻に覆われていた。八本の脚が床を叩く音が重い。尾が頭上で弧を描いている。先端に光る針。目が八つある。全部こちらを向いていた。
でかい。
圧が違う。
一層や二層の魔物とは、根本的に重さが違う。
「来る」
俺が言った瞬間、《鎧蠍》が動いた。
八本の脚が一斉に床を蹴った。地面が揺れた。
速い。
巨体に似合わない速さだった。
俺は正面に出た。
呪印を一段解放した。黒炎が右腕を包む。身体強化。全身の反応速度が上がる。
《鎧蠍》の前足が俺に向かって振り下ろされた。
岩を砕く爪だ。直撃すれば腕ごと持っていかれる。
俺は右に跳んだ。
爪が床に刺さった。石畳にひびが入った。
着地と同時に俺は《鎧蠍》の前足に黒炎を叩き込んだ。
ジュッ——という音がして、甲殻が焦げた。でも貫通しない。硬い。
《鎧蠍》が前足を振り上げた。俺を弾き飛ばそうとしている。
俺はその前足に掴まった。
乗った。
「ケンジ!」
リアの声。
俺は《鎧蠍》の背中に乗り上がった。そのまま尻尾の付け根に向かって走った。甲殻の上を走るのは滑る。でも——呪印の身体強化で踏み込みを強くすれば、滑らない。
尻尾が俺に向かって振れた。
しゃがんで避けた。
尾の付け根が目の前にある。
継ぎ目が見えた。
細い。でも確かに、甲殻と甲殻の間に隙間がある。
俺は黒炎を両手に集めた。
継ぎ目に両手を押し込んだ。
ジジジ——という音がした。黒炎が継ぎ目から内側に食い込んでいく。
「——ッ」
《鎧蠍》が暴れ始めた。
背中から俺を振り落とそうとしている。左右に体を揺らす。
俺は尻尾の付け根に爪を立てて耐えた。
「エリス!」
「地面、動かす——!」
地面が波打った。
《鎧蠍》の八本の脚の足元が沈んだ。一瞬、動きが止まった。
腹が——晒された。
「ドラ!」
ドラがすでに跳んでいた。
双剣を逆手に持ち、《鎧蠍》の腹——中央の継ぎ目——に向かって真下から突き上げた。
ズガッ。
鈍い音がした。
一本が深く刺さった。
「リア!」
「撃つ——!」
ヒュッ——。
風魔法で加速させた矢が、ドラの剣が作った隙間に向かって飛んだ。
吸い込まれるように入った。
《鎧蠍》の体が、一瞬固まった。
それから——ゆっくりと、傾いた。
俺は背中から飛び降りた。
《鎧蠍》が横に倒れた。
八本の脚が、ばたばたと痙攣した。
止まった。
静寂。
「……やった」
リアが弓を下ろしながら言った。
「ああ」
「ケンジが背中に乗った時、心臓が止まるかと思った」
「有効な手だった」
「有効かどうかじゃなくて!」
「次も同じ手が使えるとは限らない。ただ今回は最短だった」
「……もう少し事前に言ってよ」とリアが言った。
「判断したのがその場だったから言えなかった」
「そういう問題じゃ——」
ガロが笑った。「お前ら二人の連携、見てて面白いな」
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四層の中継点で一息ついてから、五層に入った。
五層に足を踏み入れた瞬間、空気がさらに重くなった。
石の匂いが濃い。地の底に来たという感覚が増した。
「ボスがいる」とドラが言った。「四層の《鎧蠍》と比べ物にならない匂いだ。岩と——血の匂い。何かを喰った後だ」
「どのくらい先だ」
「……百メートル以上。でも、こっちの匂いを嗅ぎつけてる。こちらに向かって動いている」
「来るのを待つか、こちらから仕掛けるか」
「仕掛けた方がいい」とガロが言った。「《岩甲竜》は待つと穴を掘って地中に潜る。地中から来られると厄介だ。こちらから広い場所に誘い込む方がいい」
「わかった。先行する」
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五層の奥に、広い空間があった。
天井が高い。四層より天井が高い。奥行きもある。
そして——いた。
《岩甲竜》。
全長は五メートルを超えていた。全身が岩のような鱗で覆われている。四本の太い脚。首が長い。尾が長い。尾の先端が岩のように固く、何かを叩き砕いた跡がある。
目が——こちらを捉えていた。
赤い目だった。
知性がある目だった。
「でかい……」
リアが小さく呟いた。
ガロが「腹が弱点だが——《岩甲竜》は《鎧蠍》と違う。腹を自分から晒さない。四肢を潰すか、首の付け根の鱗が薄い部分を狙うしかない」と言った。
「首の付け根まで近づく手段は」
「四肢を使えなくさせれば頭が下がる。そこに一気に入る」
「エリスが足場を崩せるか」
「……重そうだけど、やってみる。足を止める程度なら」
「一秒あれば十分だ」
《岩甲竜》が咆哮した。
石の壁が震えた。
来る——。
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《岩甲竜》が突進してきた。
頭を低く下げて、首ごと突っ込んでくる。岩盤を削りながら進んでくる音が響いた。
俺は左に飛んだ。
ガロが右に飛んだ。
《岩甲竜》の頭が、二人がいた場所を通り抜けた。壁に激突した。壁が砕けた。
でかい穴が開いた。
《岩甲竜》が頭を振った。怒っている。
「脚を狙う。右前脚から潰す」とガロが叫んだ。
俺は右前脚に向かって走った。
《岩甲竜》が気づいた。前脚を振り上げた。
俺は止まらなかった。
前脚が振り下ろされる瞬間——横に跳んだ。爪が床を叩いた。
着地と同時に、俺は前脚の関節——鱗の継ぎ目——に黒炎を叩き込んだ。
ジジジジ——。
黒炎が継ぎ目に食い込む。鱗が歪む。
《岩甲竜》が前脚を引こうとした。
俺は両手で掴んで、離さなかった。
黒炎を押し込み続けた。
焦げる匂い。鱗が溶ける音。
「——ッ」
《岩甲竜》が首を振って俺を弾き飛ばそうとした。尾が横に薙いできた。
「ケンジ、尾!」
リアの声。
俺は尾の軌道を見た。
低い。しゃがんでも当たる。
俺は跳んだ。
尾の上を飛び越えた。
空中で一瞬浮いた。
その隙間に——エリスが地面に手をついた。
「《地脈震》——!」
紫の魔力が地面に広がった。
《岩甲竜》の四本の脚の足元が、一斉に波打った。
左前脚が大きくぶれた。
バランスが崩れた。
《岩甲竜》の頭が——下がった。
首の付け根が見えた。
そこだ。
「ドラ!」
「行く——!」
ドラが地面を蹴った。跳躍の高さが尋常じゃない。土属性の身体強化を脚に集中させた跳び方だった。
《岩甲竜》の首の付け根——鱗が薄い部分——に向かって、双剣を叩き込んだ。
ガガッ。
一本は弾かれた。でも——もう一本が、薄い鱗の隙間に入った。
「深く入らない!」
「わかってる、もう一本——!」
ドラが弾かれた剣を引き直して、同じ場所に叩き込んだ。
ズガッ。
今度は深く入った。
《岩甲竜》が吼えた。
頭を大きく振った。ドラが振り落とされた。
「ドラ!」
ドラが受け身を取って転がった。「問題ない!」
ガロが左側から《岩甲竜》の左前脚に連続で斬りかかっていた。大剣で継ぎ目を叩く。ゴッツが右後ろ脚の腱を狙って双剣で削り続けていた。
《岩甲竜》の動きが、少し遅くなっていた。
出血している。
「リア!首の傷を狙って!」
「見えてる——!」
リアが弦を引き絞った。
ウィンドアロー——矢に風魔法を乗せた。
ヒュッ。
矢が、ドラの剣が作った傷口に向かって一直線に飛んだ。
刺さった。
深く。
《岩甲竜》の動きが止まった。
四肢が震えた。
崩れていく——。
巨体が地面に倒れた。
地響きがした。
埃が舞った。
静寂。
「……倒した」
ミナが静かに言った。
「五層ボス、初討伐か」とガロが呟いた。「——俺たちが最初にここを踏んだ時、三回失敗した。一回目は全滅しかけた」
「三回か」
「そうだ。お前たちは一回で倒した」
「連携が機能した。それだけだ」
「それだけ、ね」
ガロが少し笑った。
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埃が舞った。
静寂。
「……倒した」
ミナが静かに言った。
「五層ボス、初討伐か」とガロが呟いた。「——俺たちが最初にここを踏んだ時、三回失敗した。一回目は全滅しかけた」
「三回か」
「そうだ。お前たちは一回で倒した」
「連携が機能した。それだけだ」
「それだけ、ね」
ガロが少し笑った。
俺は《岩甲竜》を見た。
地面に横たわる巨体。岩のような鱗に、黒炎の焦げ跡が残っていた。
まだ先がある。
でも——今夜は、ここで休む。




