第25話:岩砕き熊
北の山道は、街を出てすぐに傾斜が始まった。
石畳の街道が途切れて、獣道に変わる。岩が多い。足元が安定しない。木々は低く、視界は開けているが、その分遮蔽物も少ない。
空気が冷たい。
山間の朝は、平地より体に刺さる。リアが白い息を吐きながら、弓の弦を軽く確認していた。
「寒い」
「気温が下がると弦が縮む。張り直した方がいいか」
「もうやった。朝一番に」
「そうか」
ドラが先頭を歩いていた。鼻をわずかに動かしながら、周囲の匂いを読んでいる。
「……岩砕き熊の匂いがする。まだ遠い。二百メートル以上先だ」
「方向は」
「正面からやや右。岩場の向こうだ」
「わかった。慎重に進む。気配が変わったら即座に教えろ」
「ああ」
俺は呪印を薄く解放した。
五十メートル圏内に獣の気配はない。人の気配も今は感じない。
昨夜感じたヴォルテクスの気配も、今は拾えなかった。
だからといって安心はできない。
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五分ほど進んだところで、ドラが右手を上げた。
全員が止まった。
「匂いが濃くなった。近い」
「距離は」
「五十メートルを切ってる。……複数だ。二頭以上」
俺は岩の陰から前方を覗いた。
開けた岩場があった。
そこに、いた。
《岩砕き熊》——体長は二メートルを超える。全身が灰色がかった分厚い毛に覆われていて、その下に岩のような皮膚が透けて見える。前足が太い。爪が長い。一振りで岩を砕ける、という話が依頼書に書いてあった。
三頭いた。
受付の女性が言っていた通りだ。最近は群れで出現すると。
「三頭か」と俺は小声で言った。
「多い」とリアが言った。
「変わらない。動き方を変えるだけだ。エリス、足場を操作できそうか」
エリスが岩場を見渡した。「……土よりも岩が多い。少し難しい。でも、岩の下の地層に干渉できれば——足元を崩すことはできる」
「崩す?沈める、ではなく?」
「沈めるには岩が硬すぎる。でも地盤を波打たせれば、バランスを崩させることはできる。二秒くらいなら」
「二秒でいい。その間にドラが急所を狙う。俺は別の一頭を引きつける。リア、残りの一頭に集中しろ」
「わかった」
「ドラ」
「動ける」
全員が頷いた。
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俺が最初に飛び出した。
岩場の中央に向かって走る。三頭の《岩砕き熊》が一斉にこちらを向いた。
でかい。
間近で見ると、その重量が伝わってくる。地面が微かに揺れる。
先頭の一頭が前足を振り上げた。
俺は呪印を一段解放した。
黒い炎が右腕を包む。身体強化。反応速度が上がる。
前足が振り下ろされる直前——俺は横に飛んだ。
ドンッ、と岩が砕ける音が響いた。一撃で、岩に亀裂が入った。
硬い。そして速い。
「エリス!」
「やる!」
エリスが地面に両手をついた。
紫の魔力が地面に広がった。次の瞬間、三頭の足元の岩盤が波打った。
地震のような揺れが、局所的に発生した。
三頭が一斉にバランスを崩す。
そこだ。
「ドラ!」
ドラがすでに動いていた。
地面を蹴って跳躍し、体が宙に浮く。双剣を逆手に持ち替えて、二頭目の首筋に向かって——
ザシュッ。
一頭目に気を取られながら俺は横目で確認した。ドラの刃が、熊の首の毛が薄い部分——耳の付け根の後ろ——に深く刺さっていた。
二頭目が崩れながら横に倒れた。
リアの矢が飛ぶ。
ヒュッ——。
風魔法で加速した矢が、三頭目の右目に吸い込まれた。
三頭目が後ろ足で立ち上がって、吠えた。
でかい声だ。山に響く。
俺は一頭目と向き合っていた。
まだ倒れていない。バランスを崩した直後に体勢を立て直した。頭がいい。
前足が横に薙ぎ払われる。
俺は飛び退いた。風圧が頬を撫でる。
ギリギリだ。
呪印の熱が上がる。黒炎が右腕を包む量が増えていく。
俺は一歩踏み込んだ。
黒炎を拳に集中させた。
熊の腹——毛が薄い、柔らかい部分——に向かって、拳を叩き込んだ。
ドゴッ。
鈍い音がした。
熊が数メートル吹き飛んだ。岩に背中をぶつけて、動かなくなった。
熱が、腕から少し漏れる。周囲の草が焦げた。
制御が完全ではない。
でも——倒した。
「三頭目!」
リアの声が聞こえた。
振り返ると、ドラがすでに動いていた。
右目を射抜かれて暴れている三頭目の熊の背後に回り込んで、後ろ足の腱を双剣で断ち切った。
三頭目が倒れ込んだ。
そこにリアの矢が、もう一本飛んだ。
今度は左目に。
動かなくなった。
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静寂が戻った。
俺は右腕の黒炎を消した。呪印の熱が引いていく。
「全員無事か」
「問題ない」とドラが言った。血がついているが、自分のものではない。
「私も」とリアが言った。
「……うん、大丈夫」とエリスが言った。
「エリス、座れ。無理するな」
「平気。ちょっと使いすぎただけ」
「使いすぎが積み重なると倒れる。座れ」
エリスが素直に岩に腰を下ろした。
ドラが三頭の《岩砕き熊》を確認しながら言った。「……強かった。Cランク相当というのは本当だな」
「ああ。一頭でも厄介なのが三頭いた」
「ケンジの黒炎、一発でぶっ飛んだぞ」
「制御が荒い。周囲を焦がした」
「結果は出た」
「結果だけで判断するな。精度が上がらないと、いつか仲間を巻き込む」
ドラが少し沈黙した。「……そうだな」
「ドラの首への一刺し、良かった。急所を外さなかった」
「爪牙流の基本だ。急所と、そこへの最短経路を体に叩き込む」
「リアの二射目も正確だった。暴れている相手の目を二連続で射ぬくのは難しい」
リアが照れたように「まあね」と言った。
エリスが岩の上で静かに言った。「私の地盤操作、二秒しか持たなかった」
「十分だった」
「でももっと長く持たせたい。練習する」
「する価値がある。続けろ」
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討伐証明のために熊の耳を切り取ってから、山道を降り始めた。
その時だった。
ドラが立ち止まった。
「……ケンジ」
「何だ」
「さっきから、妙な匂いがしてた。気になってたんだが——」
ドラが岩場の端、低木が密集している場所を見た。
「人の匂いだ。ずっとここにいた。俺たちの戦闘を、最初から見ていた」
俺は呪印の感覚を広げた。
いる。
低木の影。四十メートル先。三つの気配。
息を潜めている。でも消せていない。
「《鋼牙》か」
低木の中から、声がした。
「……気づいてたのか」
出てきたのはガロだった。
後ろにミナとゴッツが続いた。三人とも武器を持っていない。戦闘の意図はない。
「最初から気配はあった」と俺は言った。「でも敵意がなかったから放置した」
「放置……」
ガロが複雑な顔をした。
「何のために見ていた」
「……Eランクが《岩砕き熊》三頭を相手に何をするか、見てやろうと思った」
「見て、どうだった」
ガロが少し黙った。
その後ろで、ミナが静かに言った。
「……正直に言うと、想定外でした。三頭を、それぞれ役割を分けて二分以内に仕留めた。連携が完成していた」
「参考意見として受け取る」
「参考って——」ガロが眉をひそめた。「素直じゃないな」
「お前に素直になる理由がない」
ガロが一瞬目を丸くして——それから、ふと笑った。
「……気に入らない奴だが、嫌いじゃない」
「俺はまだ判断してない」
「はっきり言うな」
ゴッツが、無言でドラの隣に立った。
ドラがゴッツを見た。
ゴッツがわずかに顎を引いた。
ドラも、同じように顎を引いた。
それだけだった。
でもその二人の間に、何かが生まれた気がした。
「……パーティ名、決まったのか」
ガロが俺に聞いた。
「《灰燼》だ」
ガロが繰り返した。「灰燼……」
「気に入らないか」
「いや」ガロが少し間を置いた。「……強そうだ」
「強くなるつもりだから」
ガロが今度こそ声を出して笑った。
「面白い奴だな、お前。《鋼牙》のガロだ。覚えておけ」
「ケンジだ」
「ああ。覚えた」
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ギルドに戻って、耳を提出した。
受付の女性が確認してから、顔を上げた。
「《岩砕き熊》三頭の討伐確認しました。これにより《灰燼》パーティの達成件数は十五件となります」
俺は少し止まった。
フェンの街で青タグ(Eランク)に昇格したその日から、俺は効率を最優先した旅の計画を立てていた。王都への道中、街道沿いに出没する魔物の討伐や、 山賊の残党処理の依頼を、片っ端からギルドで引き受けていたのだ。
『街道のハゲタカを三羽討伐』『岩トカゲの巣の間引き』『足の速い《跳ね兎》の集団駆除』
移動しながら、進路上にいる標的をただ淡々と、確実に処理していく。
ドラの鋭い嗅覚で先んじて敵を察知し、リアの《ウィンドアロー》で動きを止め、エリスの全属性魔法で崩し、俺が呪印の打撃でトドメを刺す。
無駄のない、完璧な連携。
結果として、カルタの街に到着するまでのわずかな期間で、俺たちがこなしたEランクの依頼は――『十五件』に達していたみたいだ。
「Dランクの審査条件を満たしたということか」
「はい。本日中に審査を受けていただければ、Dランクへの昇格が可能です」
三人が顔を見合わせた。
リアが「やった……!」と小声で言った。
エリスが目を細めて、静かに笑った。
ドラが「思ったより早かったな」と言った。
「集中した成果だ」と俺は言った。
受付の女性が続けた。「審査はギルドマスターとの簡単な面談になります。今日の午後に時間を取ることができますが、いかがでしょうか」
「受ける」
「では午後二時にこちらへお越しください」
俺は頷いた。
Dランク。
次の街へ向かうための、最低限の力だ。
でも——今朝見た岩場の光景が、頭の隅に残っていた。
北の山道。ヴォルテクスの気配。《銀山運送》の倉庫。
消えていく人たちの話。
Dランクになれば、もう少し動ける。
もう少し、踏み込める。
俺は受付から離れながら、街の北側に目を向けた。
城壁の向こうに、倉庫があるはずだった。
呪印が、また静かに熱を持った。
待て、と俺は自分に言い聞かせた。
まだだ。
——でも、もうすぐだ。




