第19話:霧の中の獣
朝、宿を出た。
空は曇っていた。低い雲が山の向こうから流れてきている。こういう天気は霧が出やすい。《霧狼》の縄張りには、好都合かもしれない。
四人でルーデ南の森に向かった。
街道を外れて獣道に入ると、足元の草が露で湿っている。木々が密集してきて、視界が狭まる。
二十分ほど歩いたところで、ドラが足を止めた。
「いる」
俺たちも止まった。
「どこだ」
「前方、右寄り。三頭分の匂いがする。草と泥と、獣特有の脂の匂いだ」
ドラが鼻を動かしながら言った。俺は呪印を薄く解放して気配を確認した。
確かにいる。でも俺の感知より、ドラの方が一歩早かった。そして方向も正確だ。
「他の個体は」
「……左側にも一頭。後ろは今のところない」
「五頭の依頼だ。残り一頭を探す必要がある」
「もう少し進めばわかる。風向き次第だ」
俺は頷いた。「先頭はドラ。俺が後ろについて気配を補完する。リアは右後方で弓を構えろ。エリスは光源を出す準備を」
「霧はまだ出てないけど」
「出てからでは遅い。すぐ出せる状態にしておけ」
「わかった」
エリスが右手に小さな白い光を灯した。豆粒ほどの光。消費が少なくて、いつでも拡張できる状態だ。昨夜の練習の成果が出ている。
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さらに百メートルほど進んだところで、霧が出てきた。
足元から白い霧が立ち込めてくる。あっという間に視界が五メートルほどに狭まった。
「エリス」
「はい」
エリスの光が少し大きくなった。ロウソク程度の明るさ。霧の中でも、周囲数メートルがぼんやりと見える。
「ドラ、匂いは」
「……変わった。霧が出ると匂いが広がって、逆に位置が絞りにくくなる」
「方向だけでいい」
「右前方に二頭。左に一頭。後方……いた。一頭」
「五頭全部か」
「もう一頭が——」
ドラが止まった。
「リーダーがいる。匂いが違う。前の四頭より濃い。大きい個体だ」
「どこだ」
「……真正面。霧の奥。動いていない」
俺は気配を探った。確かにいる。でも動かない。こちらを待ち構えている。
賢い。
群れを四方に配置して、リーダーが中央で待つ。獲物が囲まれたと気づく前に詰める戦術だ。
「囲まれる前に動く。ドラが右前方の二頭を処理。俺が左の一頭。リアは後方の一頭を——」
「霧で見えない」
「音で撃てるか」
リアが少し間を置いた。「……やってみる」
「無理はするな。見えたら撃て。見えなければ回避を優先しろ」
「わかった」
「エリスはリーダーの注意を引く。光を大きくして、前方に向けろ。俺たちが片付けてからリーダーは俺が相手をする」
「一人で?」
「リーダーを倒せば群れは崩れる」
「でも——」
「エリスはリアの側につけ。護衛しながら光源を維持しろ」
エリスが頷いた。
「全員、同時に——」
「来た」
ドラが言った。
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右前方の霧が裂けた。
《霧狼》が二頭、低く構えて飛びかかってくる。毛並みが白くて、霧と同化していた。目だけが黄色く光っていた。
ドラが双剣を両手に構えた。
一頭目が喉元を狙って跳ぶ。ドラが半歩引いて剣を交差させる。ガキィッ、と金属と牙がぶつかる音。そのまま体重を乗せて、霧狼を地面に叩き伏せた。首筋に剣を一閃。
二頭目が側面から来た。ドラが振り返りながら逆手で剣を払う。霧狼の前脚を切り、体勢を崩させて、そこに踏み込んで仕留めた。
二頭、五秒もかからなかった。
左からも気配が来た。俺は呪印を足に流して横に走った。霧の中から飛びかかってきた霧狼の軌道を読んで、その下に潜り込む。腹の下をくぐりながら、呪印を込めた拳を横腹に叩き込んだ。
ドォッ。くぐもった音。霧狼が吹き飛んで、木の幹に叩きつけられた。地面に落ちて、動かなくなった。
「後ろ!」
リアの声が聞こえた。
後方からの一頭が、リアを狙って突進してきていた。
ヒュッ——。
矢が霧の中を走った。霧で視界が効かないはずなのに、矢は霧狼の肩に刺さった。霧狼が体勢を崩す。
「風を使って音を読んだ」
リアが息を切らせながら言った。「風魔法で空気の揺れを感じると……ちょっとわかる気がした」
「二本目を」
「わかってる」
ヒュッ——。
二本目の矢が首元を貫いた。霧狼が崩れ落ちた。
四頭、処理した。
霧の奥が、静かになった。
でもリーダーは動かない。
エリスが光を前方に向けていた。白い光が霧を薄く照らしている。その光の中に——影が見えた。
大きかった。
他の個体より二回り以上大きい。全身に霧を纏っていて、輪郭が霞んで見える。黄色い目が、こちらをじっと見ていた。
仲間四頭が倒れた。でもリーダーは動じていない。
賢すぎる。
「ケンジ」
ドラが低く言った。「あいつ、ただの魔物じゃない。群れを統率している。策を持っている」
「わかってる」
俺が一歩前に出た瞬間。
リーダーが動いた。
速い。さっきまでの個体とは全然違う。霧の中を一瞬で詰めて、俺の首元めがけて跳んでくる。
俺は呪印を全身に流して後ろに飛んだ。
牙が頬の横をかすめた。
熱い。皮膚が浅く裂けた感触がある。
地面に着地した瞬間、リーダーが再び体を沈めた。次の突進の準備だ。
俺は右手に黒炎を集めた。
リーダーがまた跳んだ。
今度は俺も動かなかった。
リーダーの体が俺の真上に来た瞬間、右手の黒炎をリーダーの腹めがけて叩き込んだ。
ドォンッ。
爆発音が森に響いた。リーダーが吹き飛んで、大木の幹に激突した。木がメキメキと音を立てて傾いた。
リーダーが地面に落ちた。
それでも立ち上がった。
前脚を踏ん張って、体勢を整える。黄色い目に、まだ意志があった。黒炎を食らって、それでも立っている。
「……Fランクの依頼じゃなかったのか、これ」
俺は思わず呟いた。
リーダーが再び地を蹴った。今度は低く、素早く。さっきより速い。追い詰められるほど速くなるのか。
俺は右に跳んで躱した。
リーダーの爪が左肩を掠めた。服が裂けて、皮膚に浅い傷が走る。
「くっ——」
リーダーが着地して即座に振り返った。三度目の突進を準備している。
「ケンジ!」
エリスの声が飛んだ。
紫の光が右手に凝縮した。リーダーに向けて放たれた土の塊が、リーダーの後脚を地面に縫い止めた。
動きが止まった一瞬。
俺は黒炎を絞った。極細の一筋。それをリーダーの眉間に向けた。
「終わりだ」
黒炎が走った。
リーダーが崩れ落ちた。
静寂が戻った。
俺は息を整えた。
リーダーだけで、他の四頭の倍以上消耗した。Fランクの依頼じゃなかったな、と思った。あれはEランク相当だ。
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五頭の耳を切り取った。
エリスが光を消して、手を振った。
「……光の維持って、思ったより難しいね」
「消耗したか」
「全然。ただ、集中するのが初めてで」
エリスは平然としていた。魔力量が多いだけあって、あの程度の持続では疲弊しない。むしろ「制御の感覚をもっとつかみたい」という顔をしていた。
ドラが俺の頬を見た。
「血が出てる」
「浅い」
「手当てしろ」
「後で——」
「今しろ」
ドラに言い切られた。俺は素直に薬草を取り出した。
リアが「ドラ、ケンジに勝った」と小声で言った。
「聞こえてる」
リアがにやりとした。
ドラが「当然だ」と言った。
「お前は体の管理が雑すぎる。強くても死んだら終わりだ」
「……わかった」
俺は薬草を頬に当てた。
エリスが「ケンジが素直に従った」と言った。
「ドラが正しいことを言ってるから従った。それだけだ」
「ドラすごい」
「……うるさい」
ドラが照れたように視線を外した。
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ギルドに戻って、五頭分の耳を提出した。
受付の男が耳を確認して、しばらく黙っていた。
「……五頭全頭か」
「そうだ」
男が耳の一つをじっと見た。他より大きい。リーダーの耳だ。
「……これ、群れのリーダーの耳か」
「そうだ」
「Fランクパーティがリーダーまで仕留めたのか」
「依頼通りだ。問題があるか」
「問題はない。ただ——」男が少し難しい顔をした。「《霧狼》のリーダー個体はEランク相当だ。今回の依頼書に記載漏れがあった。こちらの確認不足だ。申し訳ない」
「Eランク相当か」
「ああ。怪我はなかったか」
俺は左肩の傷に触れた。浅い。薬草を当てれば問題ない。
「軽傷だ」
「……改めて確認を徹底する。今回の件は特別報酬として銀貨五枚を追加する」
「わかった」
「全頭討伐の追加報酬込みで、銀貨三十枚だ」
俺は計算した。一頭三枚で五頭分が十五枚、全頭討伐ボーナスが十枚、特別報酬五枚。合計三十枚。日本円で約三万円。
宿代と食事を引いても、しばらくは余裕が出る。
「ありがとう」
俺は銀貨を受け取った。
ギルドの中が少し静かになっていた。
昨日気絶したバルドがカウンター近くの椅子に座っていた。俺を見て目を逸らした。
俺は無視してギルドを出た。
「やったね」
リアが言った。
「当然の結果だ」
「もう少し喜んでよ」
「喜ぶより次のことを——」
「考える方が先、でしょ。わかってる」
リアが笑った。
ドラが「今夜は少しいいものを食おう」と言った。
「予算の範囲で」
「わかってる。ただの提案だ」
エリスが「肉が食べたい」と言った。
「肉か」
「ちゃんとした肉。干し肉じゃない、焼いた肉」
「……銀貨一枚以内で収まるなら」
「やった」
四人で街に向かった。
呪印が、静かに脈打っていた。
頬の傷が少しだけ熱かった。でも——悪くない熱さだった気がした。




