第11話:はじめての旅路と、星空の下の本音
母親との涙の別れ、そしてケンジが本当の意味で「世界を灰にする旅」へと歩み出す瞬間を、どうぞ最後までご覧ください……!
出発の朝は、霧だった。
薄い白い霧が村全体を包んでいて、家々の輪郭がぼんやりとしている。足元の草が露で濡れていて、歩くたびに靴底が湿る感覚がした。
俺たちは夜明け前に集合した。
人目につく前に出たかった。村人に見られれば噂になる。噂はヴァルトの組織の耳に入るかもしれない。
リアが弓と矢筒を背負って待っていた。荷物は小さな革袋一つ。猟師の娘らしく、必要最低限を的確に選んでいる。
エリスは帽子を深く被って、フードを目元まで引き下げていた。荷物は俺が持つと言ったが「自分で持てる」と断られた。
俺は荷物を背負って、村の南口に向かった。
振り返らなかった。
振り返ったら、何かが崩れる気がした。
「ケンジ」
リアが小声で言った。
「なんだ」
「……一回だけ振り返っていいよ」
俺は少し間を置いた。
振り返った。
霧の中に、村が見えた。
小さな石造りの家が並んでいる。煙突から白い煙が一本だけ立ち上っていた。アネットの家だ。この寒い朝に、もう火を起こしている。
俺は三秒だけ見た。
それから前を向いた。
「行くぞ」
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南への道は、最初は整備された街道だった。
轍の跡が残る土の道。両側に林が続いていて、時々農地が開ける。朝の空気は冷たくて、歩くたびに白い息が出た。
一時間ほど歩くと、霧が晴れてきた。
エリスが空を見上げた。「きれい」と呟いた。
「何が」
「霧が晴れるとこ。なんか、ベールが取れるみたい」
俺は空を見た。確かに、霧が薄くなるにつれて青が濃くなっていく。
「詩人みたいなことを言う」
「悪い?」
「悪くない」
エリスが少し嬉しそうな顔をした。フードの隙間から見える目元が、柔らかくなった。
リアが「ケンジがちゃんと受け答えした」と言った。
「普通に受け答えしてる」
「普通じゃないから言ってるんだけど」
俺は黙った。
二人が肩を並べて歩いている。俺は少し前を行く形になった。
後ろから、二人の話し声が聞こえてくる。
「リアって、ずっとケンジと一緒にいたの?」
「五歳から。もう五年になるね」
「ケンジって、昔からあんな感じ?」
「あんな感じっていうのは」
「なんか、大人みたいで。落ち着いてて。でもたまに子供みたいなとこある感じ」
リアが笑った。「そう。昔からそう。五歳のとき初めて会ったときから、老人みたいなしゃべり方してた」
「面白いね」
「面白いよ。振り回されるけど」
俺は前を向いたまま聞いていた。
自分の話をされているのに、なぜか不快ではなかった。
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昼前に、最初の休憩を取った。
街道沿いの木陰に座って、持ってきたパンを分けた。水を回し飲みする。
エリスがフードを少し下げた。周囲に人がいないことを確認してから、帽子の下の髪を整えた。
「暑くなってきた」
「我慢しろ。人が来たらすぐ戻せるか」
「できる。練習した」
エリスがフードを素早く上げ下げして見せた。確かに一秒もかからない。
「合格だ」
「やった」
エリスが小さくガッツポーズをした。
リアが「可愛い」と言った。エリスが「そんなことない」と言った。
俺はパンを齧りながら、周囲の気配を確認した。
街道に人影はない。森からの気配も問題ない。ヴァルトの組織が今朝の時点で追跡を再開しているとしたら、まだここまでは届いていないはずだ。
でも、油断はできない。
「二日後にはグレナに着く。それまでは街道を外れないようにしろ。迷子になった場合の合流地点は——」
「ケンジ」
リアが遮った。
「なんだ」
「今は休憩中。戦略会議は夜にして」
「でも——」
「ご飯食べてるとき、お仕事の話をするのはよくないって、お母さんが言ってた」
エリスが「それ正しい」と頷いた。
俺は二人を見た。
二対一だ。
「……わかった」
俺はパンの続きを食べた。
リアが満足そうにしていた。エリスも同じ顔をしていた。
この二人が連携し始めると、俺が損をする構図になる。前世でも似たような状況があった気がする。
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午後は雲が出てきた。
気温が下がって、歩くのが少し楽になった。街道は南に向かうにつれて、少しずつ整備が良くなっていく。グレナに近づいているということだ。
歩きながら、エリスが唐突に言った。
「ねえ、魔法って練習してもいい?」
「歩きながらか」
「手だけ。足は止めない」
俺は少し考えた。「制御の練習か」
「うん。小さく出して、小さく消す練習」
「人目がないことを確認してからやれ。街道に人が来たら即座に止める」
「わかった」
エリスが右手を前に出した。
紫の光が、指先に灯った。小豆粒ほどの、小さな光。
三秒保って、消えた。
「……できた」
エリスが自分の手を見た。驚いたような顔をしている。
「今まで一番小さく出せた」
「歩きながらの方が集中できるのか」
「なんか、止まってるより自然にできる気がする」
それは面白い特性だ。動きながらの方が魔力制御が安定する。戦闘中の動的な状況で魔法を扱う才能がある可能性がある。
「もう一度やってみろ。今度は五秒保て」
エリスが頷いた。
また紫の光が灯った。一秒、二秒、三秒——
「人来た」
リアが言った。
エリスが即座に光を消してフードを深く被った。
街道の向こうから、荷馬車が一台やってきた。御者の老人が俺たちを見て軽く手を振った。俺は軽く頭を下げた。
荷馬車が通り過ぎた。
「……五秒、数えてたのに」
エリスが悔しそうに言った。
「次は成功させる」
「ああ。でも今のは合格だ」
「え、なんで。失敗したのに」
「人が来た瞬間に止めて隠せた。それが一番重要だ」
エリスが少し考えて、それから頷いた。「……そっか」
リアが「ケンジって褒め方が独特だよね」と言った。
「褒めてるのか、あれ」と俺が言うと「褒めてる」とリアが即答した。
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日が傾いてきた頃、街道を少し外れた場所に野営地を見つけた。
木々に囲まれた小さな空き地で、以前にも誰かが使ったのか石で組んだ簡易の炉跡が残っていた。
「ここで野宿か」
エリスが周囲を見回した。
「問題あるか」
「ない。ただ——野宿って初めてで」
「俺も今世では初めてだ」
「今世では?」
「……気にするな」
エリスが首を傾けた。俺の言葉の端々にある「今世」とか「前世」っぽい感覚には、まだ気づいていないようだ。それでいい。
リアが手際よく薪を集め始めた。さすが猟師の娘だ。俺は周囲の警戒をしながら、荷物を下ろした。
火が起きた。
小さな橙色の炎が、暗くなってきた森の中でゆらゆらと揺れる。
三人で炎を囲んで座った。夕食は干し肉と固いパン。質素だが、歩いた後の空腹には十分だった。
食べ終わって、しばらく黙っていた。
炎の音だけが聞こえる。
「ねえ」
エリスが言った。
「なんだ」
「ケンジって、何のために戦ってるの」
俺は少し間を置いた。
「何のためって」
「私を助けるだけなら、村を出る必要はなかったと思う。でもケンジは最初から、もっと先を見てる気がして」
鋭い。
俺はエリスを見た。炎の光に照らされた顔が、真剣だった。
「……復讐だ」
正直に言った。
「復讐?」
「この世界に来たとき、俺は殺された。魔族に」
エリスの体が、小さく固まった。
「その連中と、その連中を動かしている存在に——全部返す。それが俺の目的だ」
沈黙が落ちた。
エリスが静かに聞いた。「……魔族に、殺されたの」
「ああ」
「……私も、魔族だけど」
「知ってる」
「それでも、一緒にいていいの」
俺は炎を見た。
「お前は違う。お前が俺を殺したわけじゃない」
「でも同じ種族で——」
「エリス」
俺は遮った。
「俺が憎んでいるのは、笑顔で人間を食らった連中だ。その連中を動かした何かだ。お前じゃない」
エリスが俺を見た。
炎の光の中で、目が揺れていた。
「……ありがとう」
「礼はいらない。事実を言っただけだ」
リアが静かに言った。「……ケンジが自分の話をするの、初めて聞いた」
「そうか」
「うん。五年間、一度も話してくれなかった」
俺は少し間を置いた。
「今まで話す必要がなかった。これから先、二人には知っておいてもらう必要がある」
「これから先って」
「俺が向かう先は危険だ。巻き込むことになる。それを知った上で、それでもついてくるなら——止めない」
リアが俺を見た。
「最初からついてくって言ってる」
「俺は確認してる」
「確認済み」
エリスも頷いた。「私も」
俺は二人を見た。
炎の向こうで、リアが笑っていた。エリスも笑っていた。
俺は視線を炎に戻した。
何か言おうとして——やめた。
言葉にできないものが、胸の中にあった。感謝でも安堵でもなく、もっと複雑な何かが。
前世でも、一度目の転生でも——こういう夜はなかった。
誰かと火を囲んで、正直な話をして、それでも朝になったら一緒にいる。そういう夜が。
「寝ろ」
俺は言った。「明日も早い」
「もう少しだけ」
リアが言った。
「もう少しだけ」
エリスも言った。
俺は黙って炎を見続けた。
暗黙の了解で、三人はもう少しだけそこにいた。
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夜中、俺は見張りのために一人で起きていた。
リアとエリスは並んで眠っていた。エリスはフードを外して、帽子だけを被ったまま眠っている。白い角が、月明かりの中でうっすら光っていた。
俺は空を見上げた。
星が多かった。
この世界の星座は前世と全然違う。でも星の多さは同じだ。いや、村より都市の光がない分、こっちの方が多く見える。
俺は膝を抱えて、星を見ていた。
ヴァルト。翼と爪の組織。その先にある何か。
まだ見えていないものが、たくさんある。
でも——今夜は、それだけでいい。
今夜は、この星空と、眠っている二人の寝息だけでいい。
呪印が、静かに脈打った。
いつもより、少しだけ——穏やかだった。




