第10話:三人の夜と、母親に言えなかったこと
お早うございます!1日2回更新の5日目(朝の部)です。
今回の第10話は、最も熱を込めて書いた、母アネットとケンジの対話のシーンになります。
二人が交わす言葉、そしてケンジが下す決断を、ぜひ最後まで見届けてください。
夕飯は、リアが作った。
野菜のスープと、硬いパン。質素だが温かい。三人で土間の小さなテーブルを囲んで、黙って食べた。
外はもう暗く、風が窓を揺らす音がする。
エリスはあまり食べていなかった。スープを一口飲んで、またパンを千切って、でもそれを皿の上に戻す。それを繰り返している。
「食え」
俺が言った。
「……食べてる」
「食べてない。手が止まってる」
エリスが俺を見た。それからうつむいた。
「……ごめん」
「謝るなと言った」
「でも」
「エリス」
俺はスプーンを置いた。
「お前が謝り続けることに、何の意味もない。状況は変わらない。飯を食って体力をつける方が、百倍意味がある」
エリスがしばらく黙っていた。
リアが「ケンジの言い方は相変わらず雑だけど、言ってることは正しい」と言った。
「雑じゃない」
「雑だよ。でも合ってる」
エリスが小さく笑った。
それからスープを飲み始めた。今度は止まらなかった。
俺はそれを横目で確認して、自分のパンを齧った。
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食後、三人で土間に座った。
リアが「これからどうするか、ちゃんと話し合おう」と言った。
俺は頷いた。
「村を出る。時期は早い方がいい。ヴァルトが今日の情報を持ち帰れば、次の手はもっと大きくなる。同じ村に留まり続けるのはリスクが高すぎる」
「どこに行くの」
「まず近隣の街だ。グレナという街が南に二日ほどの距離にある。そこで情報を集めながら、次の目的地を決める」
エリスが手を挙げた。
「私のことを狙ってる組織は、街にも手が届いてるんじゃないの」
「届いてると思う。だから街では正体を隠す必要がある。帽子だけじゃなく、フードも被る。できる限り人目を避ける」
「……ケンジたちまで危険な目に遭う。私がいなければ——」
「エリス」
俺は遮った。
「もう一度言う。お前がいなければという話をするな」
「でも現実として——」
「現実として、お前には価値がある」
エリスが黙った。
俺は続けた。
「お前の魔力量と、全属性の適性。それはこれから先、俺たちにとって必要な力になる。お前を切り捨てることは、戦略的に損だ」
エリスが俺を見た。複雑な表情だった。
「……それって、道具として必要ってこと?」
俺は少し間を置いた。
「最初はそう思っていた」
「今は?」
俺は答えなかった。
リアが「今は違うんだよ、この朴念仁は言葉にするのが下手なだけで」と言った。
「余計なことを言うな」
「事実でしょ」
エリスがまた小さく笑った。今度は少し、さっきより柔らかい笑顔だった。
「……わかった。ついていく。迷惑かけてもついていく」
「迷惑とは思っていない」
今度は、すぐに言えた。
エリスが目を丸くした。リアも少し驚いた顔をした。
「……ケンジ、今すごく素直だった」
「普通だ」
「普通じゃない。珍しい」
「うるさい」
土間に、小さな笑いが広がった。
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夜が深くなって、エリスが物置小屋に戻った。
リアと二人になった。
リアが茶を入れてくれた。この村では高級品じゃないが、夜に飲むと落ち着く。
「ねえ、ケンジ」
「なんだ」
「お母さんに、何て言うの」
俺は茶碗を持ったまま、止まった。
「……まだ考えてない」
「考えてないの?」
「考えたくなかった」
リアが静かに頷いた。責めなかった。
「私もだよ。父さんに言わなきゃいけないし、母さんにも」
リアの父親は今も猟に出ていて、村にいない。母親は家にいる。リアがエリスを匿っていることも、今夜の戦闘のことも——まだ何も話していない。
「リアの母親は、どこまで知ってる」
「何も知らない。エリスのことも、あなたの力のことも。最近私が変な時間に出かけることは、気づいてると思うけど」
「聞いてこないのか」
「聞いてこない。でも——」
リアが茶碗を両手で包んだ。
「たぶん、気づいてる。何かが変わってるって」
俺は黙った。
母親に言わなければならない。
村を出ること。どこへ行くかわからないこと。いつ帰れるかわからないこと。
前世のサラリーマン時代、俺には家族がいなかった。両親は早くに他界していて、兄弟もいない。仕事だけが生活だった。誰かに別れを告げた記憶が、ほとんどない。
今世の母親——アネット。
ボロボロになりながら俺を育ててくれた人。俺が奇妙な子供でも、魔力がゼロでも、一度も疑わずに受け入れてくれた人。
あの人に、どう言えばいい。
「ケンジ」
リアが言った。
「お母さんは、たぶん——わかってると思う。あなたがただの子供じゃないこと。ずっと何かを抱えてること」
「……それは関係ない」
「関係ある。ちゃんと話せばいい。全部じゃなくていい。でも、黙って出ていくのだけはだめだと思う」
俺は茶を一口飲んだ。
苦かった。
「……わかってる」
それだけ言った。
リアが小さく頷いた。
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その夜、俺は眠れなかった。
布団の中で天井を見上げながら、幼い頃の記憶を辿った。
二歳の頃、「ケンジ」と呼ばれた瞬間。
熱を出して寝込んだ夜、額に濡れタオルを当て続けてくれたアネットの手。
魔力ゼロの判定が出た後、村人に陰口を叩かれているのを知って、それでも「あなたは十分すごい」と言ってくれた声。
あの人は——俺が何者かを、知らない。
前世の記憶を持つ転生者だということも。呪印のことも。人を殺してきたことも。
それでも。
この十年間、俺はあの人の子供として生きてきた。
それは本当のことだ。記憶がどうあれ、感情がどうあれ——本当のことだ。
呪印が、静かに脈打った。
いつもより、温度が低かった。
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翌朝。
俺はいつもより早く起きた。
アネットはもう台所にいた。朝食の準備をしていた。
「おはよう、ケンジ。早いね」
「ああ」
俺は台所の入り口に立った。アネットの背中を見た。
細い背中だ。いつ見ても、思ったより細い。
「母さん」
アネットが振り返った。
「話がある」
アネットの目が、少し揺れた。でもすぐに穏やかな表情に戻った。
「……そっか」
それだけ言って、火を弱めた。椅子を引いて、俺の向かいに座った。
「聞かせて」
俺は椅子に座った。
何から話すか、考えた。全部は話せない。でも、嘘はつきたくなかった。
「俺には、大事な友達がいる。リアと、もう一人。その子が危険な目に遭っている。俺がついていないと、守れない」
「どこかへ行くの」
「ああ。村を出る。いつ帰れるかわからない」
アネットが黙った。
長い沈黙だった。
俺はその沈黙に耐えながら、アネットの顔を見ていた。
泣くかもしれない、と思った。引き止めるかもしれないと思った。
でも——アネットは、笑った。
目の端が少し赤くなりながら、それでも笑った。
「……そっか」
「怒らないのか」
「怒らない」
「なんで」
アネットが少し考えた。
「ケンジがずっと、何かを抱えてるのはわかってた。小さい頃から、普通の子供とは違う目をしてた。何かを考えて、何かと戦ってるような目。聞いたら答えてくれないのもわかってたから、聞かなかった」
俺は何も言えなかった。
「でも——友達のために動いてるんでしょ。それはわかる。この頃のケンジ、毎日どこかへ行って、毎日帰ってきて、傷を隠してたけど——ちゃんと帰ってきてた」
「……気づいてたのか」
「お母さんだよ」
アネットが立ち上がって、俺の頭に手を置いた。
前世では、誰かにこうされた記憶がない。
一度目の転生でも、なかった。
「そろそろ村を出る予感はしてた。こんなに広い目をした子が、ここだけで生きるはずないって」
俺は動かなかった。
動けなかった。
「行っておいで。ちゃんと生きて、ちゃんと帰っておいで」
それだけだった。
引き止めも、泣きごとも、余分な心配も——何もなかった。
俺は奥歯を噛んだ。
目が、熱くなりかけた。
前世では泣かなかった。一度目の転生でも泣かなかった。でも今——
「……行ってくる」
俺はそれだけ言った。
声が、少し掠れた。
アネットの手が、もう一度俺の頭を撫でた。
それから、何事もなかったように火加減を戻した。
「朝ごはん、食べてから出なさい」
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出発は翌日に決めた。
その日の午後、リアも母親に話した。リアの母親は最初驚いて、それから「あんたらしい」と笑ったらしい。
夕方、三人で廃屋の前に集まった。
「明日の朝、出発する」
俺が言うと、リアとエリスが頷いた。
「荷物は最小限にしろ。食料三日分、水、金になるもの。あとは身軽にしておいた方がいい」
「わかった」
「エリス、帽子とフードは絶対忘れるな」
「わかってる」
エリスが帽子の鍔を指先で触った。あの廃屋で俺が被せた、埃だらけの帽子だ。何度も洗って、今は綺麗になっていた。
「ねえ、ケンジ」
エリスが言った。
「なんだ」
「お母さんと、ちゃんと話せた?」
俺は少し間を置いた。
「ああ」
「良かった」
エリスが笑った。
俺はその笑顔から視線を逸らした。
夕暮れの光が、三人の足元に伸びていた。
明日から、全部変わる。
でも——呪印は、今夜もいつもと同じ速さで脈打っていた。
変わらないものが、一つだけある。
俺の中の、あの炎だけは——どこへ行っても、消えない。
第10話をお読みいただきありがとうございました。
次回の更新は、本日【夜18:00】です!




