第310話 水の守護者
馬車の中には、深い静寂が満ちていた。
軋む車輪の音も止み、外では夜風が草木を揺らす音だけが微かに響いている。休憩のため、馬も足を止めているようだ。
揺れのない空間で、乗客たちは思い思いに体を預け、酒に沈んだ意識を手放していた。
誰かのいびき、誰かの寝言。
それらが重なり合い、どこか無防備で、危うい空気を漂わせている。
ネロもまた、その中の一人だった。
小さくなったスイムを胸元に抱えたまま、静かな寝息を立てている。
「う~ん……もう呑めない……」
「スピィ……スピィ……」
スイムもまた、寄り添うようにして眠っていた。
柔らかな体が、ネロの腕の中で微かに上下する。
そんな穏やかな光景に、ひとつの影が近づいた。
足音はない。気配も極限まで抑えられている。
その影は、眠るネロを見下ろし――ゆっくりと手を伸ばした。
その瞬間。
「お前、ネロに何するつもりだ」
低く、鋭い声が空気を裂いた。
影の動きが止まる。
「……起きてたんやね」
わずかに肩をすくめ、影――ライカが振り返った。
暗がりの中でも、その目だけが妙に冴えて見える。
「心配で、おちおち寝てられねぇからな」
ガイは壁にもたれかかっていた体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。
視線は逸らさない。
獲物を見据える獣のように、まっすぐライカを捉えていた。
「それで? ネロに近づいて何のつもりだ」
短く、重い問い。
ライカは一瞬だけ沈黙し――
「何って――」
手を動かした。その瞬間、ガイの足がわずかに踏み込まれる。
だが――
「はぁ~……やっぱりスライムの感触は最高やな」
「……は?」
ライカの手はネロではなく、その腕の中にいるスイムの頭へと伸びていた。
ぷに、と弾力のある感触を楽しむように撫でる。
「スピッ……?」
「しもうた、起こしてもうたか? ごめんな」
軽く指先で撫でると、スイムは一瞬だけ目を開け――すぐに安心したように再び眠りに落ちた。
その様子を見届けてから、ライカは小さく笑う。
「可愛くてな。つい触りたくなってもうたんや」
「……それで誤魔化したつもりか?」
ガイの声音は変わらない。
疑念は、微塵も消えていない。
「疑り深いなぁ」
ライカは肩をすくめる。
「まぁ、えぇことやと思うで」
「チッ……」
ガイは小さく舌打ちをした。
「ネロは気を許してるみてぇだが、俺はそんな甘くねぇ。覚えとけ」
その言葉に、ライカの目がわずかに細くなる。
興味深そうに、ガイを見た。
「――随分と大事に思っとるんやな」
そして、からかうように続ける。
「せやけど、その想いを成就させるのは大変そうやで? 周りにべっぴんも多いしな」
「変な勘違いしてんじゃねぇよ!」
思わず声を荒げるガイ。
だがすぐに、周囲の寝息を思い出したのか舌打ちして声を落とした。
「……俺は、こいつに助けられた」
ぽつりと、吐き出す。
「一度は追放して突き放したってのにな」
握られた拳に力がこもる。
「だから今度は俺が守る。そう決めただけだ」
それは、誓いのような言葉だった。
ライカは少しだけ目を細める。
「――それで目ぇ光らせとるってわけやな」
「そうだ」
即答だった。
「こいつは危機感が薄い。今だって、この馬車の連中を“いい奴ら”だと思ってる」
ちらりと周囲を見る。酒に酔い、眠りこけている乗客たち。
「疑うことを知らねぇ。だから危うい」
その言葉に、ライカは小さく頷いた。
「そこは同意やな」
視線をネロへ落とす。
「お人好しは付け込まれる。それが世の常や」
「……だから俺は、お前を信じねぇ」
ガイは一歩も引かない。
「今も疑ってる」
ライカはふっと笑った。
「それでえぇ」
そして背を向ける。
「これから行くのはアークレイズや。無法地帯やで」
振り返らずに言う。
「隙見せたら終わりや。……精々、気ぃつけや」
そのまま、自分の席へと戻っていった。
ガイはその背を、じっと見つめ続ける。
目を逸らさず、呼吸すら乱さずに。
(……あいつ、何者だ)
ただの旅人ではない。かといって、明確な敵とも断じきれない。
掴みどころのない存在。
だからこそ――
(目ぇ離すわけにはいかねぇ)
ガイは再び壁にもたれながらも、完全には気を緩めなかった。
そして――眠るネロの腕の中で、スイムが小さく震える。
まるで何かを感じ取ったかのように。
だが、それはすぐに収まり、再び静かな寝息へと戻っていった。
夜は、まだ深い――。




