第311話 アクシス領の変化
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「あの塵どもは、まだ見つからんのか」
苛立ちを隠そうともせず、ギレイルが吐き捨てた。
偽勇者として民衆の前に晒し上げたはずのガイは、ネロたちの手によって奪還され、処刑は未遂に終わった。
本来ならば見せしめとして完璧に終わらせるはずだった一件。
それがこの体たらくである。
民衆には「尋問が残っている」「仲間の所在を吐かせるため」ともっともらしい理由を並べて誤魔化しているが――噂はすでに広まりつつあった。
曰く、偽勇者は逃げ出したのではないか。
曰く、そもそも罪自体がでっち上げだったのではないか。
耳に入るたびに、ギレイルの機嫌は確実に悪化していく。
面目は、完全に潰れていた。
「騎士団も冒険者も動いております。じきに捕縛の報せが届くかと」
落ち着いた声音で答えたのは、妻であるアンダラだった。
表向きは平静を装っているが、その指先はわずかに強張っている。
ギレイルを宥める意図もあったのだろう。
だが――
「フンッ。まるで他人事だな」
低く、冷たい声。
「それで、貴様も何か手を打っているのだろうな?」
鋭い視線が突き刺さる。
アンダラの額に、じわりと汗が滲んだ。
「も、勿論です。既に探索も行っております。紙鳥を飛ばし、周辺の索敵を――」
「お得意の紙の鳥か」
鼻で笑う。
「だが、見つからねば意味がない」
「……っ」
アンダラは唇を噛んだ。
紙風魔法で生み出す鳥を風に乗せて広範囲を探る――それが彼女の常套手段である。
だが、その魔法は万能ではない。
距離が離れるほど制御は鈍り、視認精度も落ちる。
既に領外へ逃れている可能性が高い以上、その手段は決定打にはなり得なかった。
その現実を、ギレイルは容赦なく突きつける。
重苦しい空気が室内に広がったその時――
コンコン、と控えめなノックが響いた。
「旦那様、失礼いたします」
扉越しに聞こえたのは、執事長ジルベルトの声。
ギレイルが短く許可を出すと、音もなく扉が開かれた。
無駄のない動作で一礼し、静かに室内へ入る。
背筋は伸び、視線は適度に伏せられている。
その立ち振る舞いは、まさに長年仕えてきた執事長のそれだった。
「逃亡者の件、進展はあったか」
問いに対し、ジルベルトは一瞬の間も置かず答える。
「申し訳ございません。現時点では有益な情報は得られておりません」
簡潔、かつ曖昧さのない報告。
だがその内容に、ギレイルの表情が露骨に歪んだ。
「何の成果もないというのに、よくも顔を出せたものだな」
横からアンダラが冷ややかに言葉を挟む。
だがジルベルトは微動だにしない。
「ご叱責は甘んじて受けます。しかし――一点、看過できぬ事案が発生しております」
わずかに声音を落とした。
その変化に、ギレイルの眉が動く。
「問題だと? これ以上何がある」
「……アクシス湖の水が、消失いたしました」
静かに告げられた言葉。
次の瞬間、空気が凍りついた。
「……何だと?」
ギレイルの眉が吊り上がる。
アクシス湖――領内唯一にして最大の水源であり、生活基盤を支える要でもある。
本来、枯渇などあり得ない規模の湖だ。
その水が――消えた?
到底信じがたい報告に、ギレイルは即座に立ち上がった。
「自分の目で確かめる」
短く言い放つ。
ジルベルトは即座に一礼した。
「ご案内いたします」
◆◇◆
現地に到着したギレイルは、言葉を失った。
広大だったはずの湖が――そこには、ただ巨大な窪地が広がっているだけだった。
水面のきらめきは影もなく、露出した湖底がむき出しになっている。
ひび割れた地面。
ところどころに乾いた泥の痕跡。
だが奇妙なことに、泥濘んだ様子はほとんどない。
まるで“最初から水など存在しなかった”かのように、乾ききっている。
風が吹き抜け、砂埃が舞い上がった。
「……馬鹿な」
ギレイルの喉から、低く絞り出される声。
「これが……あのアクシス湖だと?」
信じがたい光景だった。
「原因は現在調査中でございます」
ジルベルトが一歩下がった位置で報告を続ける。
「しかし、もう一点――不可解な点が」
「何だ」
「湖に生息していた魚類も……すべて消失しております」
「……死骸は?」
「確認されておりません」
ギレイルの視線が湖底をなぞる。
確かに――骨一つ、残っていない。
ただ空虚だけがそこにある。
自然現象では説明がつかない。
だが、それでも――
「……たかが水だ」
吐き捨てるように言った。
アンダラも頷く。
「そうですわ。水など代替はいくらでも効きます」
その言葉に、ジルベルトが静かに補足する。
「アクシス領は、この湖を基点として各地へ水を供給しておりました。これが失われれば――領民の生活用水にも影響が出るかと」
わずかな間。
ギレイルの顔に不快の色が浮かぶ。
「全く……次から次へと面倒事が湧いてくる」
苛立たしげに息を吐く。
「だが、水程度で騒ぐな。手段はいくらでもある」
断言だった。
「水の紋章持ちを集めろ。あの塵以外にもいくらでもいるだろう」
侮蔑を含んだ声音。
「普段何の役にも立たん連中だ。こういう時くらい働かせろ」
「仰る通りですわ」
アンダラも即座に同調する。
「無能な水使いどもを総動員すれば、いずれ補えるでしょう」
ジルベルトは一礼した。
その表情に感情は浮かばない。
「承知いたしました。即刻、各地より水の紋章保持者を集めさせます」
淡々と命を受け、背を向ける。
だがその内心では――
(……間に合う保証はございませんが)
そう結論づけていた。
水は、単なる資源ではない。
循環し、流れ、均衡を保つものだ。
それを“人為的に補う”という発想そのものが、既に危うい。
だが、それを進言することはない。
ここでは、それが最善だからだ。
そして――この判断が、どれほどの誤算を生むかを。
ギレイルは、まだ知らない――否、知ろうともしていなかった。
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