04.
「……ヨハンナ……」
「いえ、ヴァネッサです」
呆けたお父様がお母様の名を呼ぶ。こちらに伸ばされた腕は無意識だろう。
悪役令嬢になったヴァネッサ。
父に見限られたくなかったヴァネッサ。
帳尻合わせの端役。
作中では描かれなかったけれど、ヴァネッサの父は心から娘を愛していた。
そういうことになっていた。
私達の間では。
公式資料ではない、作者と担当編集が話しただけの舞台背景。
―― よかった…あんな雑談の内容まで反映されているのかは賭けだった
母親が亡くなるまでのわずかな時間。親子3人の記憶を宝物のようにしまい込み、思い出なのか、願望が見せた妄想なのか分からないまま、彼女もまた父を愛していた。
だから、わたくしもお父様を嫌いになんかなれないのよ。
「…ヴァネッサ!!」
フワッと浮遊感を感じたら、お父様に抱き上げられていた。速い。構える隙を与えない高速抱っこ。
「すまない…!すまない!」
後頭部を包む大きな手。力強い腕が巻き付く。あ…ちょ、苦し…
「旦那様っお嬢様が…!」
ジグムントの声でようやっと締め付けがなくなった。締め上げられた私より苦しそうな顔をしたお父様と見つめ合う。
そっと、頬に手を添えた。まだ小さなわたくしの手。大きなお父様。
目の奥が熱を持つ。鼻に、喉にこみ上げる。
「…お父様っ…」
首にしがみついて歯を食いしばった。胸が震えて。溢れた想いが熱い雫となってこぼれ落ちる。
「ヴァネッサ…!」
堰をきったように止まらない。視界がぼやけ、耳が詰まり、しゃくりあげる身体が熱い。いえ、熱いのはお父様かしら。
あぁヴァネッサ ―― きっと大丈夫 ――もう私は必要ないわ ――
安堵と、ほんの少し寂しさを感じながら意識を手放した。
*********
やりきった気持ちで眠っても、まだ私でした。
なんだか眠る度に同化が進むような…むしろ、同期する為に睡眠を必要としている?
ヴァネッサという少女を俯瞰視していた感覚が抜けていき、"未来視のようなものをした自分" になりつつある。
あの後、なんと1日半も寝ていたそうよ。
こま切れに意識は浮上して、夢うつつに用を足したり水分を取ったりしてたけれど、何も話さずすぐにまた眠る、を繰り返していたみたい。脳の容量が他の処理に割かれていたんだろうか。
夢は見た気がする。何も覚えてない。目を覚ますととてもスッキリしていただけ。
清拭をしてもらい人心地ついていると、アルルが訪いを告げた。まぁ、目が赤いわ。
「アルル。ずっと看ていてくれたのでしょう。もう休んでちょうだい」
「ですが…」
「あなたの身体だって大事なの。わたくしはもう平気よ。メイドで事足りるわ。さぁ」
渋るアルルを笑顔で押し切る。訪ねてきた人 ――お父様を室内に招き入れたら下がってもらった。
自室にお父様がいる。なんだか不思議な気分。
「お父様。わざわざ来てくださりありがとうございます」
立って挨拶しようとしたが止められた。寝台で半身を起こし向き合う。
お父様は立ったまま ―― おもむろに片膝をついた。驚きで目を見張る。この世界に公爵はいない。侯爵家当主である父が膝をつくのは王と教皇だけだ。
「ヴァネッサ。俺は君にどう償えばいいのか分からない愚か者だ。どうか、跪き君の視界に入る事を今は許してほしい」
軽く伏せた顔は悔恨が滲んでいて、こちらをあまり見ないようにしているみたい。
「…お父様…そういうお顔を見ると、わたくしもかなしいみたい…お会いできてうれしいわ?」
笑って欲しくて笑ったつもりだけど うまくできたかったようだ。沈痛さを増してしまった。
手をおそるおそる伸ばしてみる。
お父様を窺うと、ためらいがちに私の伸ばした手を握った。ホッとして息が漏れる。
そうやっているだけで、指先から温かな何かが流れてくるみたい。
静かに流れる、穏やかな空気 ―― に、ねじ込まれる咳払い。
「…なんだ」
「旦那様。お気持ちは重々承知しております。ですが元凶の処置をお伝えせず、お嬢様が心安らかになられるとも思えませんぞ」
「わかっている。ヴァネッサ、身体はどうだ?少しでも辛いなら出直そう」
ジグムントに返事をしてから、私に尋ねる。
「いいえ。もう問題ありませんわ」
「そうか。辛くなったらすぐに教えてくれ。…此度の処断、俺はすぐに葬ってやろうかと思ったのだが、ジグムントが止めた。ヴァネッサか嫡女として同席する事が、今後のために必要だとな」
シグムントが?
こういうケースだと、私がいる事で "言った言わない"、
"やったやってない" の水掛け論が始まるんじゃないかしら。反証の余地を与えずに処断するのであれば、むしろいない方がいいのでは?
離れて立つジグムントを見やる。
「ジグムント。あなたが関与していなかったと判断したこそ、わたくしはあの場で謝罪いたしました。ですが、間接的にはいかがですか?」
祖父とまではいかない。40過ぎくらいかな。働き盛りであろう男性の表情を窺う。
「若年の身で口幅ったい事かと思いますが、お話させていただいた限り、あなたに浅慮さや愚かしさを感じませんでした。わたくしの印象が正しいのであれば、夫人の為人や邸内の雰囲気を全く感じ取れなかったとは考えにくいのです」
未必の故意とまではいかない。だが、違和感を感じたまま雇用を続けていたのだとしたら、同席を求める真意も変わってくるのではないかしら?
お父様はそれをどこまで把握しておられるんだろう。
「失礼な物言いをごめんなさい。ですが、わずかでもわたくしを軽んじる意識があったのだとしたら、この件に関してあなたの提案を頭から信じる事は難しいですわ」
ふぅ、とお父様が息を吐いた。疑り深いと私も思う。
「ジグムントの言うとおりか…」
「言葉が過ぎました。申し訳ございません」
「違う、俺が悪い。ジグムントはヴァネッサがそこまで考えつくだろうと言ったんだ。君の聡さを見くびるなと」
聡いというか、警戒からくる猜疑心だと思う。
あのやり取りで、お父様は何も知らなかったと感じたけれど、ジグムントは "主犯じゃないわね" 程度の手応えだった。
悪意のある人に、面と向かって "やましいことない?" って聞くの、本当だったら意味のない行為だけど。
ここにはお父様がいらっしゃるから。可能性を匂わすだけでも今後動きづらいはず。
「旦那様。お嬢様とお話させていただいても?」
お父様に許可をもらうと、部屋の隅にいたジグムントが歩み寄ってくる。ついでにお父様に椅子を勧めてるわ。
使用人の距離でとどまると、頭を下げた。
声かけを待つつもりのようだ。
私を安心させるように頷いてから、お父様は椅子に腰掛けた。
「ジグムント。頭を上げて」
四角い顔に茶色い瞳。
お髭は今日もビシッとしてる。
「使用人のように扱ってごめんなさい。あなたを軽んじるつもりはないのです。以降、挙頭と開口にわたくしから許可を得る必要はありませんわ」
「お嬢様の寛仁なご配慮に感謝申し上げます。跪いても?」
やめてほしい。王族でもそんな事させないと思う。
「ふふ。ジグムントもそんな冗談を言うのね?」
そういう事にしてね?傲慢なやつって評判立っちゃうでしょ。
「かしこまりました」
そう言うと、ジグムントは相好を崩した。
「大きゅうなられましたな。奥方様にますます似て…さぞお美しくなられるでしょう」
嬉しそうに頷いている。
「ジグムント。お前は弁明がしたいのか口説きたいのかどっちだ」
「旦那様。これは大事な話ですぞ。お嬢様は奥方様によく似ておられる。私めの間違いはここに端を発します」
悲しそうに眉尻を下げる。黙っていると厳めしいけど、話すと愛嬌を感じるタイプのようだ。
「旦那様は奥方様をそれはもう…それはもう大事に…囲い込…かんき…人目を憚る事なく溺愛されておりました」
婉曲な言い回しに変えようと努力したみたいだけど、最後のもそんなに良くないと思うわ。
「ご葬儀の後、旦那様の心を支えられたのはお嬢様の存在でございます。奥方様へ向けられた以上の溺愛を、物心もついていない幼子に注ぐ。お嬢様が侯爵家をお継ぎになるのであれば、それは良からぬ影響を残す事でしょう。家臣の身で過ぎたる具申ではございましたが、"嫡女とするならば厳しく育て、甘やかしたいのであれば後添いを娶られませ" と申し上げました」
ごもっとも。むしろ、私が継ぐとしても後妻を入れるのが普通じゃないかしら。大きな家の実子が1人だけなんて心許ないもの。
私の表情に理解を感じ取ったのか、ジグムントはもっと眉を下げた。
「旦那様は後添いは望まれず ―― 会えばどうしても甘やかしてしまうから、しばらくは距離を取られる ―― と」
お父様と距離ができたきっかけはジグムントの諫言。理由は私がお母様に似ているから、かしら。
「お嬢様にはご両親に代わる存在が必要でしたが、乳母はもう邸を離れておりました。そのため一時的な世話係として雇われたのがザッカリー夫人です」
お髭がピクリと痙攣する。
「かの夫人はお嬢様にお会いしてすぐ "精神的に不安定になっておられるので自分以外の大人、特に男性はあまり近寄るべきではない" と言い出しました。お嬢様に侍るには経験の浅い、若年のナニーメイドと夫人だけがお傍にいる事となったのです」
目尻もピクピク。
「時期当主を、他家から雇った元男爵夫人に一任するなどあり得ませぬ。夫人は男性に脅えるの一点張り。仕方なく…トマスが、執事長だけがお嬢様のご様子を確認してくると…」
拳を握りしめる。
「トマスは、お嬢様はずっと泣き喚いておられたと言いました。何度も行っても変わらず、癇癪がひどいと…。当時の事を、ナニーメイドとして控えていたアルルに確認いたしました。執事長が来る前はいつも…痛みに泣き喚くよう、執拗に折檻していたと…」
「ジグムント」
黙って聞いていた私が名を呼ぶと、怨敵を仕留めようとする武将のような雰囲気が霧散した。
「どうかアルルを責めないでください。まだ邸に入ったばかりの少女だったの。わたくしを庇って、アルルもたくさん痛い思いをしたわ」
そのために若い娘ばかりを選んだのだろうし。
ふぅ、と深く息をつくジグムント。
「失礼いたしました。もちろんでございます。責めを受けるべきは我々でございますゆえ」
糊のきいたハンカチで顔を拭う。汗をかいたわけではないだろう。
「"落ち着かれているのは母のように慕う自分がいるからだ" とのたまい、"他の大人がいる時は必ず自分が同席する" と…献身的な勤めようだと周囲は捉えておりました。そして…」
ちらりとお父様を見る。
「旦那様には "会いたくない" と怯えていると」
私もお父様を見ると、前のような憤怒ではなく無表情。死刑執行人みたいな顔してる。
―― お父様も悲しかったかしら…
当時、3歳ぐらいの記憶を思い返しながら言う。
「…夫人は最初 "わたしが新しいお母様よ" と仰ったの。本当に最初のうちだけ。懐かないわたくしに、すぐ嫌気が差してしまったんでしょう」
取り入るのから、排除に切り替えたんだろう。
「お父様に会いたいと言うと、"コムルト様はお前のような出来損ないには会いたくないそうよ" といつも返されました。精進すればいつかお会いできるのかと思い、子どもの浅知恵で努力してまいりましたが…あの時になりふり構わずお父様に縋っていれば、夫人の専横をここまで許さずに済んだはず…」
ダンッ と音がして、私の髪がふわりと揺れた。
「違う。ヴァネッサが反省すべき事など何一つない」
一瞬で片膝をついた状態に戻ったお父様。私の手を握っているが、握る瞬間も見えなかった。
みんな瞬間移動できるの?
●口幅ったい【くちはば・ったい】
身の程をわきまえない大口、生意気で偉そうな口ぶり
●寛仁な【かんじん・な】
心が広く情け深い、人に対して寛大に接する様子




