01.
バチンッ
「右足が浅い」
バチンッ
「肩を丸めない」
バチンッ
「頭を下げすぎ」
ザッカリー夫人の短鞭がしなる。
打たれた痛みと引かない熱。
いつまでも終わらないご指導。
―― …もう…
脂汗が顎に滴り落ちる。
天地が回り、視界が黒く塗りつぶされていくよう。
もう力が入らない。
そう思ったら、一気に脱力する。
全身が床に打ち付けられた。
―― ちからが…はいらない…
足元に顔を擦りつけるなど初めてだが、屈辱より焦りが勝った。ザッカリー夫人に何を言われてしまうか…
焦燥とはうらはらに、身体は動かず。
駆ける足音が聞こえた気がしたが、暗転する世界に吸い込まれてそれも分からなくなった。
************
「――は――です!まだ―――ません!!」
アルルの大きな声で目が覚めた。めずらしい。アルルは侯爵令嬢の侍女だからね。大声なんて初めて聞いた。
―― まだ23だもの げんきでいいわよ
……ん?
アルルはわたくしより10歳以上年嵩よ。なぜ若い娘を微笑ましく思うみたいに?
……ん?
―― 私って子どもなの!?いえ私じゃないわ…わたくしよ…
頭がグルグルするのは熱のせい?
空気が、息が吸えない――
震える手で取ろうとした呼び鈴は絨毯に落ち、リィン――と、くぐもった音が鳴った。
勢いよくドアを開けたアルル。
急ぎ足で、いえ、ほぼ走ってるわね。これも初めてだわ。つんのめるようにこちらに駆けつけるアルルの必死さが嬉しくて少しだけ微笑んでしまった。息苦しさに涙する顔では、ちょっと顰めただけかもしれないけど。
「お嬢様っ!!」
掻き抱くようにアルルが支えてくれる。9歳の身体は軽いのかもしれないが、細腕の女性に抱き上げられて、わたくしは ―― 私はまた混乱した。
―― 私、この子よりも重いはずよ…いえわたくしは食が細くて…みすぼらしいとザッカリー夫人にも貶されて…
「お嬢様…!ご無礼をお赦しくださいっ!」
私を横抱きにしたままベッドに腰掛ける。アルルの膝の上に乗せられ、私の頭を支えるように抱え込んだ。
背を撫でるアルルの手が温かい。
耳元で聞こえる優しい声。
呼吸に上下する身体。
拍動を刻む、自分以外の誰か。
お母様が亡くなって、無くしてしまったもの。
「…ア…ルル…ありが…と…ぅ……」
心地良さに目をつむると、今度は柔らかに吸い込まれていった。
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目を覚ますと暗闇だった。ほのかな明かりもない。前だったら停電したのかと思っただろう。
―― たぶん…前世なのよね?それとも、寂しさのあまりイマジナリー前世を創ったのかしら…
この世界にイマジナリーフレンドという言葉はないけれど。そして私は、 わたくしは、寂しいなんて思ってなかったわ。
胸を突く寄る辺なさは "寂しい" という感情だと分かる事こそ、前世があった証左のような気がしている。雲を掴むようなおぼろげな記憶しかないのだが、色彩をワントーン上げたみたいに、世界は見え方を変えた。
―― わたくしは ヴァネッサ・ラリューシュカ
侯爵家の嫡女。母は亡く、父はこの侯爵領を治めている。
そして
ここは、小説の世界なのかもしれない。
………わかってるわ!!イタいのは分かってる!!三十路越えてイタいわよね!でも、でも、わたくしはまだ9歳で…
1人でもだえてしまった…羞恥で。これも前世を信じてしまう理由のひとつではある。もう長いこと、わたくしの感情が揺れようと身体は反応しなかったから。
―― ここが私の考えている世界なら
お父様に会わないといけないと思う。
物心ついてから、親密な言葉を交わした覚えのない父に。当主として指示があるときも、家令が代わりに申し伝えるだけだった。
この扱いがザッカリー夫人をつけ上がらせたのよね。
そもそもザッカリー夫人は、未亡人で時間があるから私のマナー指導を命じられただけの使用人だ。
そして、ヴァネッサ・ラリューシュカは元男爵夫人ごときに鞭打たれるような身分ではない。
一昨年からは、高位貴族の礼儀作法を指導してくれる人が来るようになった。当然だ。下位貴族に教わる事などそんなにあるわけがない。ザッカリー夫人はあくまで幼い子のマナー入門で充てがわれただけ。
―― "私を母のように慕っている" など虚言を弄し、邸の女主人を気取る慮外者め ――
父や使用人達には自分が慕われていると言い回り、わたくしには毒のような言葉を浴びせてきた。
"顔も見たくないような子どもが1人だけなんて、お可哀想なコムルト様"
"不格好な姿も不出来さも、前侯爵夫人に瓜二つ"
難しい言葉を解せぬ幼子の頃から、突き刺すように毒を注ぎ続けた夫人。幼いわたくしは、その毒を信じた。
口撃に傷ついた顔をしなくなってからは、短鞭の威力が増していき、しかし消えない傷跡を見てもメイド達は何も言わない。その頃にはもう、女主人気取りで振る舞っていたからね。
アルルだけは違う。
侍女が当主に物申す事などできない。家令にだって無理だ。執事長でも話しかける機会などない。
でも、いちばん身近な執事に訴えてくれて。それだってだいそれたことなの。女主人紛いじゃなく、本物の侯爵夫人がいたら即解雇されるような越権行為だから。
ザッカリー夫人はアルルを目障りに思ってる。
主人を守ろうと足掻く優しい侍女を。
絶対、思い通りにはさせない。
―― 原作通りなら やりようはあるはずよ
● 慮外者【りょがい-もの】
無礼な人




