11.
「ヴァネッサ。こっちへおいで」
肩に置かれたお父様の手が温かい。
アルルに服を持ってこさせ、早く肌を隠すよう目で訴えている。
「申し訳ありません…」
先に着た方がよかったな、って私も思ってました。
急いで着ましょうそうしましょう。
アルルー!
服や髪を直してもらって皆の方を見ると、タチアナ様がふらりと立ち上がり、私へ向かって歩き出した。護衛が接近を阻むように私の前へ出る。
しかし、女史の顔色がどうも良くない気がする。
「タチアナ様?もしやお加減が…」
良くないのですか?と聞き終わる前に、足元に崩れ落ちた。
「え……誰かっ寝台へ運んで――」
「侯女様…どうかそのまま」
呼び方が変わってしまった。
どうやら倒れたのではなく跪いたようだ。
「愚かな発言っ…取り返しのつくような事ではございませんが…伏してお詫び申し上げます」
ちょっと前の落ち着きぶりが嘘のように、声が震え肩を丸めている。
「受け入れます。どうかお休みになってください…お顔の色が…」
真っ青だ。
心臓発作とか起きたらどうしよう。
お医者様を呼ぶべきかしら、とお父様を見上げる。
お父様は視線を受けて女史を一瞥したが、喋る芋虫を見る目付きは変わらなかった。
「気にするな」
私の向きを変えて帰路へとエスコートし、背後を振り返らず指示を出す。
「ヴァネッサが案じている。少し休ませてからそれを追い出せ」
謝罪は受け入れる気がないようだ。
「…お待ちくださいっ!…どうか、これまでの事もお詫びを…させていただきたく…」
「…これまで?」
女史はお父様の足を止める事に成功した。不穏さも戻ってきてしまったが。
確かに、釈明しないと後がないかもしれない。この場から解放されるだけで、報復しないとは言っていないわけだし。
これまでとは、お会いした時から続いている、蔑み嫌うあの態度の事だろうか。
ずいぶん嫌われてるなぁとは感じていた。夫人に比べるとマイルドな侮辱だったから気にしていなかったけど。
お父様はどういう態度だったのかを知らないので訝しげだ。だが、私が不思議に思っていないのを見てなんとなく想像がついたらしい。
「今日だけではない、という事か」
頭上から振り注ぐ、腹立ちを込めた低音ヴォイス。権力者の圧がすごい。
「お父様…」
もう痙攣手前くらい震えてる。本当に発作起こしてしまうのでは。処したのと変わらなくなってしまう。
一旦タイムが必要だと思う。
「お話は、少しお休みになられてからの方がよろしいのでは…あ、今日はもう、ご一緒するのは難しいかしら…?」
何度もこの人数で集まるのって効率悪いわよね。ただでさえ忙しくなってしまっていたのだし。どうしたらいいかしら…執務室にお邪魔するとか?
頬に手を当てて考えみるが、上を見ても下を見ても思いつかない。
「…ヴァネッサ…」
考える私を待ってくれていたのか、黙していたお父様が小さく呟く。眉根を寄せている顔は、傍目からすれば不機嫌そうに見えるだろう。でも私はどうしても悲しそうに見えてしまって、心苦しくなる。
ひどい事を言う人から離そうとしているのも、私を休ませたいのも分かってるから。
大きな手を、励ますようにキュッと握る。お父様も強く握り返してくれた。
―― 分かってる?…どうして?
不可解な感覚に、いまの状況を一瞬忘れてしまう。
凪のような時間、不意に傍らから唾を飲む音がして、感覚が途切れた。喉を鳴らした張本人である女史を見る。しまった、まだ跪いているままだったわ。
「侯女様の傷痕を晒させてしまった罪を贖えるとは到底思えませんが、どうかお聞きいただきたく…」
待って待って。まず立ってほしい。いや座ってほしい。
握っているお父様の手に、もう片方も載せて両手で包む。微笑みかけると握る力が弱まり、その瞬間にするりとすり抜けて女史の元へ。
床についた手を取って、そそそ…とソファへ誘導していく。
ソファに座ってしまったタチアナ様が、目を大きく開いて私を見ている。流れるような誘導に驚いているんだろう。うまくいって私もちょっと驚いている。
なんとなく掴んだ手を握ったままにしていたら、女史もギュッと力を込めて握り返したようだった。
そうよね。ちょっとお父様が怖かったもの。慰めるように乾いた手を両手で包む。
「あな…あなた様は…っ」
呼び方に距離がどんどん出来てる気がする。どれだけ怖かったんだろう。
"大丈夫ですよ" と気持ちを込めて微笑みかけると、はっと息を呑んで固まった。
少しの間を空けて、女史は息を細く吐きだす。気持ちを落ち着ける為だろう。吐ききったところで、私の手をそっと離した。
「お休みになられますか?」
尋ねると、ゆっくりと首を振って断る。そのまま、震える手を首元のボタンへと伸ばした。
襟元をゆるめ、グイッと下へずらしてうなじを露出すると、首から背中へと続く大きな…火傷の痕?
でこぼこと盛り上がり、ところどころ引き攣れている。赤みはなく、かなり昔のものだろう。
「15の時に負いました。これによって婚約は解消されましたが、父母の計らいでこうして身を立てる事ができ、教会で安寧を得られたのです」
"見苦しいものを…" と言って素早く襟を直す。
「これは、折に触れて痛むのですが…罪に触れると、より強く痛みを感じるようになりました」
喉がまた鳴り、膝の上の手を擦り合わせるように動かしている。
「いかな罪があるのか、私のような凡夫に量れようはずもございせん。なぜそう思うようになったかと申しますと…告解を聞くとひどく痛むのです」
古傷はストレスでも痛む事があるらしい。それだろうか。確かナントカ神経とやらが…なんだった?
ダメだ。別人格だと思わなくなる程、私の知識が霞がかっていくような気がする。
「…侯女様にお会いする時はひどく痛んで…」
"いかほどの罪があるのかと…" と続けた消え入りそうな声に、嘲るような笑い声が被った。
「ハッ!そんな事で」
古傷というものは、寒さや雨など環境変化で痛むものだ。眠る直前にも痛むと聞いた事がある。珍しい事ではない。これ以上聞く価値のない話だと思ったのだろう。切り捨てるようにお父様が割って入った。
「己が特別だと思い上がったか」
一回り小さく萎れてしまったタチアナ様は、もしかしたらジグムントよりだいぶ年上なのかもしれない。そう思えるくらい老いてしまったように見える。
「…もちろん雨などでも痛む事があるのですが、罪に触れたと思われる痛みだけは、薬草で沈痛しても効かないのです。効果があるのは教会の護符のみ…」
そこで言葉を切って私を見る。
「教会には癒し手様がいらっしゃいます。お聞きになった事は?」
瞳だけが力を取り戻したかのように、強い光が差し込む。
「癒し手様は希少な存在。痛みに敏感で、他者を癒す事ができるのです。ですから教会ではそう呼ばれておりますが、異国ではヒーラーと呼ばれていたり――」
―― 愛し子と呼ばれる事もございます――
そう続けて、私をじっと見つめている。
●一瞥【いちべつ】
一瞬だけ、ちらりと見ること




