筋肉にシナプス
どっちが本物かなんて、俺が考えたところで1ミリの利益もない。意味のないことこの上ない。よし、忘れよう。
ガラララランッ!! と、教室の頑丈な引き戸が、およそ現役高校生が立てていいとは思えない爆音を響かせて開け放たれた。
案の定、そこに立っていたのは嵐山だった。
「たのもー!」
……いつの時代の道場破りだ。
当然、クラス中の視線が入り口の爆弾男へと一斉に集まった。さすがはサッカー部のエース、注目度の引き寄せ方が尋常ではない。どちらかといえば、脳みそまで筋肉で詰まっていそうな男なのだが、この圧倒的な華だけは認めざるを得ない。
黒板の前に集まっていた男子生徒の一人が、すぐに嵐山を見つけて声を張り上げた。
「お、嵐山! お前も勉強すんのか、こっち来いよ!」
「すまん! 先約があるでな、また今度勉強しようぜ」
嵐山は白い歯を爽やかに輝かせながら手を振ると、周囲の陽キャたちの引き留めをすり抜け、迷いのない足取りで教室の最果て――つまり、俺と吾妻のいる窓際の一番後ろへと向かって歩いてきた。
結局、俺と吾妻の二人で、この大型犬に勉強を教える羽目になった。
というか、嵐山は完全にその時の気分で俺たちの席へと突撃してきたらしい。あいつはガサガサと机の上に教科書を広げると、秒で俺の顔を覗き込んできた。
「椥辻、ここ教えてくれ!」
「……まずは一旦、自分で考えろ」
「んー、……わからん!」
「思考を放棄するのが早すぎるだろ。はぁ……わかった、ここな」
俺は深い溜め息を吐きながら、嵐山が指差した数学Ⅱのページに目を落とした。そこに賃座していたのは、高校生の大半が一度は発狂する三角関数のページだった。
「まず、加法定理ってなんだ?」
「これはな、理解するよりも語呂合わせで覚えたほうが良い」
「で、その語呂合わせ、お高いんでしょ?」
「今ならなんと、19980円」
――まずい。完全に深夜のテレビショッピングのノリに無意識に答えてしまった。
「お前、結構ノリいいんだな!」
「……気のせいだ。とにかく公式を見るぞ」
俺は咳払いで恥ずかしさを誤魔化しながら、ノートにペンを走らせた。
「いいか嵐山。これは『咲いたコスモス、コスモス咲いた』だ。サイン、コサイン、コサイン、サイン。いいな?」
「おう! 咲いたコスモス、コスモス咲いた、な! 覚えた! ……で、コスモスってどんな花だ? 日用品とか売ってそうだけど」
「それは有名なドラッグストアだ。秋の花で、薄ピンクっぽいやつだよ」
「ほうほう」
嵐山は真剣に頷き、ノートに『咲いたコスモス、コスモス咲いた(※コスモスとは秋の花)』と書き記した。
「なんか俳句みたいだな。で、このαとβって何だ? 必殺技の名前か?」
「角度だよ。お前がサッカーで、ゴール左隅の『ここしかない神コース』にシュートを決める時の、あの絶妙な角度のことだ」
「なるほど! 単位円を書いた時の y 座標が sin で、x 座標が cos なのか!」
「……は?」
どういうことだ。今までの話を聞いていて、なんでその答えに辿り着くんだこいつは。一体どういう脳みその構造をしているんだ?
……なるほど。筋肉にもシナプスってのはちゃんと通ってるんだな。
これ以上この大型犬の相手をしていたら、俺の貴重な放課後がすべて消し飛んでしまう。危機感を覚えた俺は、すっと椅子を引き、カバンを持ち上げた。
「すまん、これから用事がある。帰るな」
またメガネの音がカチャリとなる。
「また明日な」
「お前、教え方うまいから、明日も頼むわ」
嵐山はキラキラした目で言った。
俺は荷物を手に持ちそそくさと帰宅した。




