漢皆已に楚を得たるか
翌日、放課後。
そろそろ帰るか、今日は嵐山も早く来そうだし――そう思ってカバンを持ちかけた、その時だった。
やけに吾妻の周りに人が集まっているな……と、どこか他人事で見ていた俺が馬鹿だった。
「おい椥辻! 嵐山から聞いたぞ、お前の解説めっちゃ分かりやすいらしいな! 俺にも教えてくれよ!」
ここで俺はハッと気づいてしまった。いや、薄々気づいていたのかもしれない。
こいつら、俺と吾妻の席を完全に囲い込みやがったんだ。
いや、今考えるべきはそこじゃない。
重要なのは、この地獄からの脱出口がどこにあるかだ。視線を素早く巡らせる。
……あ、もうダメだこれ。完全に四面楚歌だ。
俺の唯一の友達であるはずの『愛と勇気』すらも、あまりの絶望的な状況に目を逸らしてうつむいている気がする。
完全に、時に見放された。
だが、ここで諦めたら日陰者としての俺の平穏は終わる。
俺は死に物狂いで思考をフル回転させた。
秒間数万回レベルで脳内サミットを開催した結果、この絶望的な状況を打破する、唯一と言っていい打開策――いや、究極の妥協策を導き出した。
それは……。
誰か適当な一人にだけ教えて、残りの有象無象はすべて吾妻に丸投げする。
という、完璧なリスク分散――いや、ただの責任転嫁作戦だった。吾妻は学級委員長だ。クラスメイトの面倒を見る義務がある。
ならば、その義務を最大限に全うしてもらうのが、平穏を愛する俺の優しさというものだろう。
「椥辻くん、ここ教えて」
ナイスタイミング。
左を向くと、椅子の背もたれに肘をついて座っている御陵さんの姿があった。
人と話す時なんて、最初なんて言えばいいんだっけ。
「本日は大変お日柄もよく……」
突然のことすぎて、脳内データベースから冠婚葬祭の定型文しか引っ張り出せなかった。
「あははは! いい天気だね。でさ、ここがわからないんだけど」
気持ちよさそうな声で笑うと、綺麗にまとめられたノートを俺の机へと滑らせてきた。
「あ、あそこは……ここをαとして、加法定理を使えば簡単に解ける」
「あー、そういうことか! めちゃくちゃわかりやすいね」
完全にノートしか見れない。
それどころか、緊張のあまりノートに汗が落ちそうだ。顔を上げたら最期、御陵さんの圧倒的な美貌の前に俺の意識が蒸発してしまう。
必死に数式へ視線を固定する俺の耳元で、御陵さんが少し声を潜めて、いたずらっぽく囁いた。
「ねね、今日はちゃんと起きてるんだね」
ダメだ。
これ以上取り乱したら、俺の人生から『冠』と『婚』と『祭』が消え去ってしまう。
……いや、待て。『葬』以外は全部、元から俺の人生の選択肢になかったわ。
「俺は健康優良児だからな、寝る時間はいつも気をつけてるんだ」
「たとえばいつ寝るの」
「朝と昼と……夜」
「いつも寝てるじゃん」
御陵さんは可笑しそうに目を細めた後、ふと思いついたように言葉を繋いだ。
「椥辻穂波先輩って凄いよね。やっぱ椥辻くんのお姉ちゃんだよね、似てるもん」
「どこが似てるんだよ」
「なんだかんだ、人を助けちゃうところとか……」
「いや、それは御陵さんの方が似てるだろ」
「そう? そうなれたら嬉しいんだけどね」
「……」
気まずい沈黙が流れる中、御陵さんはどこか遠くを見るような目でノートを見つめた。
「昔さ、穂波先輩に助けられてさ。そこからずっと尊敬してるんだよね」
「あいつは、それが一つの習慣のように誰でも助ける」
そう――あいつは、自分がボロボロになってまで、誰にでも手を差し伸べてしまう。そんな姉の姿をずっと近くで見てきたからこそ、俺の口からは自然とそんな言葉が漏れていた。
「俺からしてみれば、御陵さんの方が凄いと思う」
……何を言ってるんだ、俺は。
「同情」は事故を招く。
そんなこと、とっくの昔に嫌というほど痛感したはずじゃないか。
余計な踏み込みは、お互いを傷つけるだけだ。
「ありがとね」
やはり、彼女のその無条件の笑顔は、今の俺を焼き殺す。
「お礼なら姉に言え。姉もそっちの方が報われると思うぞ」
この眩しすぎる笑顔に、俺は答えられない。
やはり、こうして冷たく突き返すことしか、今の自分には、そしてこれからの自分には出来ないのだろう。
「そっか」
御陵さんは小さく呟くと、少しだけ寂しそうに、でも愛おしそうにフッと微笑んだ。
その表情の意味を俺が測りかねるよりも早く、教室の引き戸がガラララランッ!と爆音を立てて弾け飛んだ。
「たのもー!椥辻、今日も来たぞ!」




