優しさは、いつだって自分を一番に傷つける
そう言うと、御陵は教師のもとへ戻っていった。
ボールを投げ返した、その瞬間だった。
「じゃあ、」
嵐山にそう告げようとした俺の腕を、彼は、がしっと掴んだ。
そのままボールを抱え、校庭へと駆け出していく。
腕が悲鳴を上げかけていた。
こいつは本当に俺と同じ霊長類ヒト科ヒト属なのか。
もしこいつがヒト属なら、俺は何だ。ノウサギ属か何かか。
「1on1やろうぜ」
返す言葉もないまま、気づけば俺も引っ張られていた。
背後には、ちょうどいい具合にゴールがある。
嵐山はボールを器用に操りながらこちらへ走ってきた。
さすがは本職だ。俺を嘲笑うように抜いて、そのままゴールの真ん中に叩き込む。
彼はどこぞの選手のゴールパフォーマンスを始めた。
その瞬間、俺の何かがぷつんと切れた。
彼はボールを蹴り返し、今度は俺がゴールへ突撃する。
俺にとってのサッカーは、十一人でやるスポーツではない。
なぜなら、一年の頃の球技で二人組を組まされた時、相方はすぐに三人組へ逃げ、俺はリフティングを極めるしかなかったからだ。
俺の蹴鞠は、どこまで通じるのだろう。
まあ、結果は言うまでもない。
嵐山のフィジカルの前に無惨に転がり、たぶん平安時代に生まれていても蹴鞠では勝てず、今ごろ和歌でも詠んでいたことだろう。
――ここで一句。
・初夏の風 芝生に転がる ノウサギか
こんな和歌あってたまるものか。ただの五七五である。
何度も突撃したが、ことごとく返り討ちにされた。
「中々やるじゃん。なんというか、お前のサッカーはよく言えば芸術的、悪く言えば古い。例えるなら蹴鞠だ
な」
仰向けで肩を上下させる俺を見下ろし、嵐山がニカッと笑う。
「.....街路の石ころを転がして、今年で十年目だ」
「これが帰宅部か!いや、それは俺も小学校で経験済
みだぞ」
嵐山はなぜか対抗心を燃やし、自信満々にそう言った。
まじか。
それは彼がサッカーが強い理由の、大きな要因だろう。
ってか、そこ張り合ってくるなよ。
「二人ともそろそろ昼休み終わっちゃうよ」
振り向くと、御陵さんが立っていた。
「お、御陵さんじゃん。いやー椥辻のサッカーが蹴鞠っぽくてさ」
「蹴鞠? 見てみたいな、椥辻くん見せてよ」
彼女は笑いながら答えた。
俺の蹴鞠は、見せるものでも魅せるものでもない。
断固として嫌だ。
「あいにく俺の蹴鞠は貴族の中でも見れるやつが限られててな」
嵐山はすかさず食らいついてくる
「俺いつから貴族になってたんだ?」
そうだ嵐山には見せたんだった。
「あはは」
彼女は大きく笑った。
不意に目が合う。
俺はすぐに視線を逸らした。
このままだと、また同じことを繰り返しそうだった。
なんでこんなときですら、
素直に楽しめないんだろう。
流れで、俺は二人の隣を歩いていた。
「椥辻、またサッカーしような!」
もう勘弁してほしい。
だが、ひどく断りにくい。
「ああ……」
引き気味に承諾する。
まあどうせ、またなんだかんだでやることになるのだろう。
サッカーボールを戻し、教室に戻る。
クーラーは、この世で最も優しい。
まるで聖母のように、疲れた俺を眠りに誘ってきた。
そして、気づけば放課後のチャイムが鳴っていた。
結局、午後の授業の記憶はほとんどない。
終礼が終わるやいなや、クラスの連中は「今日の居残りは~」だの「部活行ってくるわ」だの、
それぞれの『居場所』へと散っていく。
その喧騒から逃れるように、俺は一人、足早に校門をくぐった。
夕方の生ぬるい風が、サッカーで酷使した太ももにじわりと響く。
早く帰って、眠りたかった。
家の玄関を開くと、我が家特有の古びた芳香剤の匂いが鼻をくすぐった。
2階の自室に荷物を投げ捨て、制服のボタンを外すそれだけで、学校という名の檻から解放されたような錯覚を覚えるから不思議なものだ。
乾いた喉を潤そうと、部屋から階段を降りたリビングには、風呂を上がったばかりの姉がいた。
「弦、今日、校庭でサッカーしてなかった?」
「してない」
「嘘つけ。私の目を誤魔化せると思うな」
「……どうでもいいだろ」
「いいや、よくない。お前、今年に入ってから初めてじゃない? あんなふうに誰かと騒いでたの」
「俺の友達は、愛と勇気だけだ」
「はいはい。で、あの子たちの名前は?」
「……知らん」
「まあいい良かったな」
姉は安堵しているのだろうか。
家ではだらしないくせに、姉は中学の頃、生徒会長をやるくらいには正義感が強かった。
たぶん、周りから見れば八方美人だったのだろう。
だが、少なくとも俺は、その正しさを嫌いじゃない。
周りの機嫌を窺い、誰にでも笑顔を振りまいて、最後には勝手に疲れ果てる。
中学の時、ボロボロになりながらも
「これが私の役目だから」
と笑っていた姉の背中を、俺は今でも覚えている。
誰も傷つけない優しさは、いつだって自分を一番に傷つけるのだ。
そういうところまで彼女は御陵さんに似ていた。
誰のことも特別扱いしない、完璧な光。
だからこそ、俺は彼女が恐ろしい。
これ以上、あの光に近づけば、きっと何かを失う気がした。




