敗北した光の雫
体育祭の準備は日々進んでいく。
進むたび、体育教師の怒号に似た声と、クラスメイトたちの無駄な熱量は増していった。
その熱狂がピークに達した頃、ついにその日がやってきた。
体育祭だからといって、俺のルーティンは変わらない。
六時起床からの朝シャワー、六時半朝食、七時半に家を出る。
だが、校門に立った瞬間、いつもとは違う異様な威圧感と熱量が一気に押し寄せてきた。
一歩でも足を踏み入れれば、人間としての尊厳くらいは簡単に吹き飛んでしまいそうだ。
俺の通う久遠高校は、体育祭や文化祭といった行事にかなりの予算をつぎ込む。有名大学への進学率だけでは足りず、対外的なブランド力も大事にしているらしい。
文武両道、青春の謳歌。
どこの自称進学校も変わらない定石、といえばいいだろうか。
入場行進、各団の小恥ずかしいスローガン、校長をはじめとする偉そうな大人たちの長ったらしい演説が続く。
そして、
「宣誓! 我々はスポーツマンシップに則り、正々堂々戦い抜くことを誓います!」
各団の団長たちの声が、秋晴れの空に響き渡る。
マイク越しに響くその凛とした声の中に、嫌でも聞き覚えのある、我が家のリビングでよく聞く声が混ざっていた。
そういえば、今年は姉である椥辻穂波も、最高学年の団長を任されていたのだった。
中学の頃にあれだけボロボロになりながら、この期に及んでまだ、誰かのための光であろうとする。
そういう人だ、あの姉は。
ちなみに、俺が出場する種目は午前中に行われる五種目目の長縄と、六種目目の学年リレーだけだ。
つまり、俺の体育祭は午前中で実質的に終了する。ここに至るまでの練習では散々足を酷使させられて紆余曲折あったが、当日のタイパとコスパだけで言えば、極めてお買い得なスケジュールと言えた。
今日はここ数日で最も気温が高い。じりじりと肌を焼く太陽から逃れるように、俺は団席の最上段、一番隅っこの日陰に陣取って、暇つぶしに各競技を眺めていた。
だが、競技が進行するにつれて、胸の中に奇妙な違和感が這い上がってくる。
おかしい。視線をトラックに戻すたび、既視感のある背中がそこにあるのだ。
さっきの障害物競走に出ていたはずの姉が、なぜか次のクラス対抗競技のラインに並んでいる。
そしてその数個隣のレーンには、二人三脚で一等賞の笑顔を振りまいていたはずの御陵さんの姿があった。
あいつらは何だ、一日に使えるスタミナの上限値がバグっているのか。それとも、単に他人を放っておけない重度のワーカホリックなのか。
そうこうしている間に長縄が終わり、俺はしぶしぶ学年リレーの待機場へと向かった。
すると、背後からいきなり首に腕を回され、強烈な負荷がかかる。
「おい、椥辻! リレー勝負しようぜ!」
耳元で鼓膜を震わせてきたこの軽快な声は、間違いなく嵐山だった。
周囲の目が集まるこの状況で、ヒエラルキーの頂点たる男に「めんどくさい」と言い放つ勇気は、あいにく持ち合わせていない。俺に取れる選択肢は、最初から一つしかなかった。
「ああ……」
やはりこいつを前にすると、流されるように承諾してしまう。生物としての霊長類的な格差を、俺の防衛本能が無自覚に察知しているのかもしれない。
『――次は、2年生学年対抗リレーです』
アナウンスが流れると同時に、クラスの連中がさながら訓練された軍隊のように一斉にグラウンドへと流れ込んでいく。スタートの合図とともに、地鳴りのような各団の応援が始まった。
レースは白熱し、俺にバトンが回ってきた時点で、我が青団と嵐山の赤団が激しい首位争いを繰り広げていた。
俺史上、今世紀最大とも言える踏み込みと共にバトンを受け取り、前へと突き進む。
だが、結果は完敗だった。
嵐山の足の速さはもちろん、前回の全体練習から格段に精度を上げてきた彼らのバトンパス技術の前に、俺のストリート仕込みの走りはあっさりと置き去りにされた。
肺を焼くような呼吸を繰り返しながら、ふらふらと待機場に戻る。
「完敗だった……」
負け惜しみすら出ない本音が、不意に口をついて溢れた。
「おう! お前もマジでいい走りだったぜ!」
俺の敗北感を爽快にかき消すように、隣に並んだ嵐山がニカッと笑って俺の肩を叩く。
まあいい、最低限度の仕事はした。あとはアンカーに任せよう。
最終的にクラスの他の奴らが意地を見せ、トータルの順位では青団が勝利を収めてリレーは幕を閉じた。
ようやくこれで俺の義務は果たされた。
泥のように疲れた身体を引きずって団席に戻り、木陰へとバックレようとした、その時だった。
『――続きまして、プログラム第7種目、団対抗選抜リレーを行います』
学校中のスピーカーから、無慈悲な声が響き渡った。
団対抗リレー。
それは各部のエースや運動部生どもが、その有り余る筋肉と承認欲求を爆発させて最高潮に調子に乗る、俺のような日陰者にとっては最も忌むべき演目である。
喧騒から身を遠ざけようと、すたすたと団席の裏へ足を向けかけた、その瞬間。
スタートラインの喧騒の中に、見知った二つの影を見つけて、俺の足がピタリと止まった。
第一レーンと第三レーン。
そこに、各団のビブスを身にまとい、観客席に向かって大きく手を振り返している御陵さんと姉の姿があった。
嘘だろ、あいつら選抜リレーにまで駆り出されてるのか。
どんだけ他人の穴埋めをすれば気が済むんだ。
呆れと戦慄が混ざった視線を送ってしまったのが運の尽きだった。
遠く離れているはずなのに、不意に、スタートラインに立つ御陵さんと目が合った。
彼女は、俺の姿を見つけるなり、今日一番の、過去最高に眩しい笑顔をこちらに向けて小さく手を振った。
網膜が焼き切れそうなほどのその純粋な光を前に、俺は目を閉じることすらできず、まるで世界の時間が数秒間ほど停止してしまったかのような錯覚に囚われていた。
ピストルの音と同時に、二人は飛び出した。
先頭争いは一瞬で加速し、あっという間に校庭の熱が跳ね上がる。
姉が先にバトンを渡し、続いて御陵さんも手を伸ばす。
その瞬間まで見届けると、俺はもう十分だった。
体育祭最高潮の喧騒を背に、校舎裏へと足を向ける。
そこには、誰が使うのかもよく分からないベンチがある。
俺を除けば。
あとは閉会式まで寝ていよう。
そう思って、ベンチに仰向けで倒れ込んだ。
「あー……また、こんなところで寝てる」
いつもの明るい声。だが、どこか無理に笑っているような、わずかに震えを含んだ声だった。
俺は小さく息を吐いて、気怠げに上体を起こす。そこには、先ほどまでトラックを駆けていたはずの御陵さんが立っていた。
「椥辻穂波先輩って、もしかして椥辻くんのお姉ちゃん?」
不意に投げかけられた問い。
立派な人間が俺の姉だと知れ渡れば、周囲は勝手に俺へ「期待」という名の重荷を向けてくるだろう。
それに、俺が弟だと知られれば、彼女の「完璧な光」という印象にも、妙な色がつくかもしれない。
「……違う」
否定した。
それが、今の俺にできる精一杯の返答だった。
俺はコンクリートの地面と、自分の足元しか見られなかった。
彼女の顔を見るのが、どうしても怖い。
「……そっか」
御陵さんは小さく呟くと、ひとつ息をついた。
そして、地面に向かってぽたり、ぽたりと涙を落とした。
その音は、妙に静かだった。
悔しい、と言うみたいに、彼女はすぐに涙を拭った。
でも、姉みたいに無理やり笑って押し隠すことはしなかった。
「負けちゃった。悔しかったなー」
震える声。
あれほど明るく、誰にでも優しかった彼女が見せた、たぶん初めての弱さだった。
俺は、その顔を見られなかった。
誰かのために頑張りすぎて、自分まで壊してしまう。
そういう不器用さが、妙に姉に似ていた。
「.....あ、ごめん。なんか変なこと言ったよね......もう行くね」
彼女はそう言い残して、俯いたまま俺の横を通り過ぎた。
その背中は、校庭の騒がしさを背負うにはあまりにも小さく、そして脆そうだった。
俺は、去っていく彼女の背中をただ見送ることしかできなかった。




