第9話 うっかり聖母逃走中
吹雪の中を、三人は歩いていた。ノイズ・ネストから脱出して二時間。地下通路は途中で崩落し、古い排水路を抜けた先は、白い荒野だった。宗教国家国境、白墓回廊まであと二日。ミナが渡した端末には、そう表示されている。リシェルは端末を握りしめていた。画面の端には、ミナが手書きで残した短い文字があった。
――誰かの「正解」になるな。
それだけ。リシェルはその文字を何度も見た。胸元には、紙の星もある。折り目の潰れた、小さな星。リオという子がいたこと。泣き虫で、紙の星が下手で、スープにパンを沈めたこと。覚えている。忘れない。
「……なんでこうなるのかな」
吹雪にかき消されそうな声で呟く。誰もすぐには答えなかった。ヴェラは損傷した腕を庇いながら歩いている。イリスは自分の肩から伸びた赤いノイズの残滓を、何度も切断している。二人とも傷ついている。それでも、リシェルの歩調に合わせていた。
「連邦は、個人を許容しません」
やがてイリスが言った。
「宗教国家は?」
リシェルが問う。ヴェラが先に答えた。
「個人を統合します」
「どっちも、嫌」
「はい」
イリスは頷いた。
「私も、嫌です」
リシェルは思わずイリスを見た。
「今、嫌って言った?」
「はい」
「あなたが?」
「はい」
「合理的に?」
「いいえ」
イリスは目を伏せた。
「ノイズ・ネストが消えたことを、不快と判断しています。ミナ個体の消失を、避けたかったと感じます。これは合理性では説明できません」
リシェルの胸が詰まった。
「それ、悲しいってことかもしれない」
「悲しい」
イリスはその言葉を繰り返す。
「そう分類します」
「分類しなくてもいいわ」
「では、保持します」
リシェルは泣きそうになった。イリスがまた一つ、人間に近づいた。それが嬉しくて、怖かった。人間に近づけば、傷つく。イリスも悲しむようになる。それでも、感情を持たないままの方がよかったとは思えなかった。ヴェラが低く告げる。
「通信ノイズ」
吹雪の中、端末が震えた。画面に白銀の騎士が映る。ルシアン・アルディス。本来なら敵。リシェルは端末を握りしめた。
「あなた」
『聞こえますか、リシェル殿下』
「罠?」
『そう疑うのが正しい判断です』
「じゃあ、やっぱり罠?」
ルシアンは沈黙した。
『このまま進めば、連邦遊撃群と接触します。東側峡谷へ進路変更を』
ヴェラが即座に言う。
「信用できません」
イリスも続ける。
「通信元は宗教国家領内。誘導の可能性が高いです」
リシェルは画面の中のルシアンを見た。心は読めない。距離がある。通信越しでは届かない。だから、言葉を見るしかない。
「どうして教えるの」
ルシアンの表情は硬かった。
『……あなた達を、これ以上追わせたくない』
「それは、教祖様の命令?」
『いいえ』
短い答え。けれど、重かった。ルシアンが自分の意思で、教祖の命令から一歩外れている。そのことだけは分かった。
『私はまだ、あなたを救うべきだと思っています』
「救われたくないって言ったら?」
『それでも、死なせたくはありません』
リシェルは目を伏せた。宗教国家は敵だ。ルシアンも敵だ。でも、敵の中にも迷いがある。連邦のシオンにも、隠された苦しみがあった。人間は、どこまでも面倒だ。心を読めても、分からない。
「分かった」
リシェルは言った。
「東側峡谷へ行く」
ヴェラが驚いたようにリシェルを見る。
「姫様」
「信じるんじゃない。これは私の意志で選ぶの、賭けてみたいの今は」
リシェルは吹雪の向こうを見た。
「連邦に戻れば管理される。宗教国家に行けば聖母にされるかもしれない。でも、立ち止まったらミナがくれた道が終わる。だから進む」
ルシアンは画面の向こうで、目を伏せた。
『あなたは、本当に逃げるのですね』
「ええ」
『何から』
リシェルは答えた。
「誰かが決めた私から」
通信が途切れた。吹雪だけが残る。ヴェラはしばらく黙っていたが、やがて剣を背負い直した。
「東側峡谷へ進路変更します」
イリスも端末を確認する。
「危険度は高いですが、連邦遊撃群との接触確率は低下します」
「じゃあ、それで」
リシェルは歩き出した。雪が頬を打つ。身体は冷えている。足は痛い。胸の中には、消えた地下都市の灯がまだ残っている。ミナの声が、ふと蘇る。
――自分の足で選べ。
「ならないわ」
リシェルは小さく呟いた。
「聖母にも、管理対象にも、数字にもならない」
ヴェラが右に並ぶ。イリスが左に並ぶ。かつては二人に守られて歩いていた。今も守られている。でも、違う。リシェルは二人の間で、前を向いていた。誰かの後ろに隠れているのではなく、自分で足を出している。雪の向こうに、宗教国家の白い山脈が見える。そのさらに先に、まだ知らない真実が待っている。
ノイズ・ネストの灯は消えた。けれど、リシェルの中に、一つだけ残った。管理されることを拒んだ人々の、小さな不完全な灯。
それを胸に、亡国の姫は再び歩き出した。
白墓回廊を越えた先に、巡礼市があった。宗教国家ソル・テオクラシー辺境都市、エル・サライ。山脈の麓に広がる石造りの街は、白い布と金の聖印で覆われていた。通りには香油の匂いが漂い、屋台では乾燥果実や祈祷札が売られ、巡礼者たちは皆、胸元に燃える太陽の紋章を下げている。リシェルは外套のフードを深くかぶって歩いていた。右にヴェラ。左にイリス。
問題は、二人も目立つことだった。黒髪の女騎士と銀髪の女騎士。どれだけ粗末な旅装に変えても、立ち姿だけで普通の護衛ではないと分かってしまう。
「姫様、目立たないことが最優先です」
イリスが小声で告げた。
「分かってるわ。今日は石ころ。誰にも踏まれない、気品ある石ころよ」
「石ころに気品は不要です」
「気分の問題よ」
ヴェラが市場の人波を見渡す。
「巡礼者の数が多すぎます。接敵時の戦闘に支障があります」
「戦闘しないのが目標よ」
「了解。戦闘を回避します。ただし、姫様に接触した場合は排除します」
「回避って言葉の意味を、あとで一緒に勉強しましょう」
リシェルはそう言いながらも、胸の奥は落ち着かなかった。巡礼市には、心の声が多すぎた。
――教祖様の御前へ。
――罪を洗い流してください。
――隣人を疑う心を捧げます。
――私の子を救ってください。
祈り。懺悔。恐怖。それらがひとつの大きな波になって流れ込んでくる。帝国の宮廷の心は濁っていた。ノイズ・ネストの心は乱れていた。けれど、ここは違う。そろっている。あまりにも、そろいすぎている。それがリシェルには怖かった。リシェルは胸元に手をやった。そこには、ミナから受け取った紙の星がある。
――祈りに飲まれるな。
ノイズ・ネストで消えた少女の声が、まだ胸の奥に残っていた。ここでは、数字ではなく祈りが人をまとめている。でも、同じだった。人が、ひとつの形に整えられていく。
「大丈夫ですか」
ヴェラが尋ねた。
「大丈夫。……たぶん」
「たぶんは不安定な回答です」
「人間はだいたい不安定なの」
イリスが少しだけ黙った。
「それを、連邦は嫌います」
「宗教国家も、たぶん嫌うわ」
リシェルは白い通りを見た。
「でも、私は……嫌いじゃない」
その時だった。広場の端で、小さな女の子が泣いていた。母親とはぐれたのだろう。巡礼者たちは祈りの行列に気を取られ、誰も気づかない。少女の心だけが、リシェルの胸にまっすぐ刺さってきた。
――こわい。
――お母さん。
リシェルは一瞬、足を止めた。見てはいけない。目立つなと言われたばかりだ。ここは敵国の街だ。指名手配のお尋ね者。人助け一つで、バレたら取り返しがつかないことになるかもしれない。けれど。
「……石ころ、少し転がるわ」
「姫様」
ヴェラの制止より早く、リシェルは少女の前にしゃがんだ。
「大丈夫」
少女は涙で濡れた顔を上げた。
「おねえちゃん、だれ?」
「一般通行石ころ」
「石ころ?」
「そう。とても親切な石ころ、何でもない、何でもないからね」
背後でイリスが小さく言った。
「設定が破綻しています」
リシェルは聞こえないふりをした。
「あなたのお母さん、あそこの香油屋台の前にいるわ。青い布を持っている人。走らないで。転ぶから」
「どうして分かるの?」
「勘。姫の第六……じゃなくて、石ころの第六感」
「姫?」
「今の忘れて、何でもない、何でもないからね」
少女は不思議そうにしながらも、母親の方へ駆けていった。母親が振り返り、娘を抱きしめる。それだけならよかった。その瞬間、山から吹き下ろした風がリシェルのフードをはらった。金髪が陽にほどける。葡萄酒色の瞳が露わになる。十四歳の少女とは思えぬ、静かな気品。そして左右には、黒髪と銀髪の二人の女騎士。巡礼者たちの心が、一斉に震えた。
――聖母伝承。
誰かが声に出した。
「人の心を読み、金髪と紅き瞳を持つ十四の乙女……」
「黒き女騎士と白銀の女騎士を従え、災厄の時代に現れる……」
リシェルの血の気が引いた。
「違います。私はただの、えっと……上品な一般石ころです」
「一般石ころという分類は存在しません」
イリスが即座に訂正する。
「今は存在することにして!」
老婆が震える手で焼き菓子を差し出した。
「聖母様……どうか、祝福を」
「聖母じゃないけど、お菓子に罪はないわね」
「姫様」
ヴェラが低く言う。
「分かってる。分かってるけど、一個だけなら信仰化しないかも」
「信仰化は既に進行中です」
イリスが冷静に告げた。
「群衆の視線集中率、七十二パーセント。三分以内に偶像化する可能性があります」
「三分もあるの?」
広場の端で誰かが叫んだ。
「白き聖母に祝福を!」
リシェルは固まった。
「……三分もたなかったわね」
ヴェラがリシェルの前に出た。
「姫様。人を助けることと、崇められることは違います」
その声は、いつもより柔らかかった。
「祈りは時に鎖になります」
リシェルは菓子を差し出す老婆を見た。彼女の心には、悪意がなかった。病気の孫を救いたい。不安で、怖くて、何かにすがりたい。それだけだった。
「……でも、あの人たち、悪い人じゃない」
「はい」
イリスが答える。
「だから危険です。姫様は、悪意よりも善意に縛られやすい」
リシェルは返せなかった。ヴェラがリシェルを軽々と抱き上げる。
「撤退します」
「ちょっと、私は荷物じゃない!」
「最重要護衛対象です」
イリスが外套をかぶせ直す。
「兼、うっかり聖母化防止対象です」
「その分類、絶対あとで消して!」
歓声と祈りが背後で膨れ上がる。リシェルはヴェラの腕の中から振り返った。迷子の少女が母親に抱かれて、こちらへ手を振っている。あの子を助けたことだけは、間違いではない。そう思いたかった。でも、広場を満たす祈りの熱は、リシェルの肌に鎖のように絡みついていた。
胸元の紙の星が、外套の下で小さく折れ曲がる。リシェルはそれを指で押さえた。助けたことまで、誰かの教義に渡してはいけない。折れた紙の星が、そう告げている気がした。




